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最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(30)

 

 北条桃矢は一気に英輔にタックルをかけていた。その動きは恐ろしく速かったが、反対に、それを読んでいる英輔には対処しやすい動きだった。

 英輔は、素早く北条桃矢の後頭部を押さえて、タックルを切ろうと手を伸ばした。

 北条桃矢の身体が、マットに押し付けられたのか、沈んだ瞬間、英輔は何を思ったのか、腕を引き抜いて飛びのいていた。

「今、何かあったんですか?」

 寺町がそこらの不特定多数の人間に聞いたが、何も答えは返ってこなかった。葵にも、その攻防の意味がよくわからなかった。ただ警戒していたとは違う、どちらかが何か仕掛けたとしか思えない動きだった。

「えーと、タックルを切りに行ったところまではわかったんですが……」

 そこまでは葵にもわかっていた。後頭部を押さえて、タックルをつぶそうとしたのだ。組み技は上になると非常に有利になる。その基本に従った英輔の反応だ。

 だが、それでタックルを切って、マットに押し付けたと思った瞬間に、英輔は逃げていた。

 観客にも、その攻防の意味はわからなかったようだ。

 だが、坂下はちゃんとその意味を理解していた。経験の差だろう。

「北条桃矢がタックルを餌に、藤木英輔の腕を取りに行ったのよ」

「タックルを餌、ですか?」

「相手が打撃ではなく、タックルを切ってくると予測して、相手の切るための手をよけて、その手を取って腰を落とす。多分、後少し藤木英輔が逃げるのが遅かったら、関節技が決まってたわ」

 上からの手をよけるなど、不可能に近いのに、さらにその手を取ろうとしたのだ。それは普通思いつかない。

「ま、とっさに藤木英輔の方が腕をひねって抜いたから、結局は決まらなかったけどね」

「何というか……わかり難い試合ですね」

 寺町が非常に残念そうに言う。この男としては、打撃の打ち合いの方が性に合っているのは、ここにいる誰もが思うことだが、反対に返せば、寺町でさえ理解できない攻防なのだ。

「これは、やる方にとっては怖い展開ね。まずは北条桃矢、一歩リードってところね」

 相手が何を仕掛けてくるかわからないというのは、非常にプレッシャーになる。得意技があれば、それを警戒すればいいのだし、それを逆手に不意をつく攻撃をされても、得意技を使われるよりはよほど楽だ。

 組み技の恐ろしいところはここだ。見ている方もそうだが、下手をすればやっている方さえどう技がかかったのかわからないことがある。

 打撃のように、距離さえ取れば何とか対処できるものと違い、至近距離に必ずいる組み技では、全体を見れるわけではないので、相手の動きが読み難いのだ。

 英輔の場合、おそらくは、手を取られた感触で、反射的に動いていたのだろう。もし、ここで柔道着を握られていたら、負けていたかもしれない。

「両方同時に動いたのに、英輔さんが技をかけられるなんて……」

 安部道場の面々は、それに驚いていた。掴んでから、そして掴む前から、英輔の技に入るまでの時間は、柔道の中でもかなり速い。

 いわゆる、瞬発力に優れているのだ。一瞬で距離をつめれるというのは、どんな格闘技においても重要な能力の一つだ。

 だが、北条桃矢は、いともあっさり、自分が技をかけてみせた。それは、瞬発力の差を示していた。

「組み技で英輔の先手を行くなんて……向こうは化け物かよ」

 安部道場の面々の一人が、そうつぶやいたが、それには、とりあえず坂下は突っ込みを入れたい気分になった。

 怪物は、あんなに優しい攻撃はしてくれないのだ。北条桃矢など、まだまだ一般で言えばプロでも、怪物の相手ではない。そして、怪物でもない。

 だが、英輔には、それでも酷な相手なのかもしれない。

 攻防の意味がわかるだけで、英輔と北条桃矢の実力差は、一回で露呈してしまっていた。

 北条桃矢にとって、組み技は、何も不利な選択ではないのだ。英輔を圧倒するだけの組み技の技術があるからこそ、英輔相手に組み技を選んだのだ。

 今度は、英輔が北条桃矢に向かってタックルをかける。

 北条桃矢も、英輔と同じように腰を落として、手で相手のタックルを切ろうとした。

 その瞬間、英輔は上体を上げ、上から北条桃矢の身体をつかもうとした。

 が、北条桃矢は、あっさりとそれを読んだのか、組み付いてくる英輔のそでを取った。英輔も、何とか北条桃矢の手首を取る。

 タックルをするとみせかけて、相手の上体を寝かせ、上から腰を取ろうとする。レスリングの技術であるが、その程度のことに対処できない北条桃矢ではなかった。もっとも、レスリングの技を平気で使える英輔もおかしいのだが。

 両方が、片方づつ腕を持っている状態で、二人は組み合っていた。

「条件は一緒……とは言えませんね」

「英輔さんの方が……」

 葵の冷静な評価に、安部道場の面々の一人、美紀がうなるように言った。

 この体勢では、英輔の方が不利だった。

 もともと、投げ技がメインである柔道にとって、片方でも腕を取れたのは、かなり形は十分であったかもしれない。実際、英輔なら、ここからの投げ技も沢山持っているだろう。

 だが、相手が悪い。それに、北条桃矢が対処できないとは思えなかった。どんな投げ技に持っていっても、対処されるのは目に見えていた。

 それは、関節技になっても同じだ。高いレベルで組み技を習得している相手に、組み技というのはそう簡単にはかからない。

 ましてや、相手にダメージを与える投げなど、かかるわけがなかった。

 北条桃矢にも、それは確かに言える。英輔に並の組み技が通用するわけもなく、最初、あれほど隙をついた組み技も、気付かれ、逃げられている。

 受け身のうまい柔道家に、いかなる投げもまずダメージを与えることはできないだろうし、そこまでの投げを許してくれるとも思えない。

 関節技だって、かかり難いのは言わずもがな。英輔を組み技で倒すというのは、並大抵の実力ではできない。

 だが、残念ながら、英輔が不利だった。

 まず、柔道着。他の打撃系の選手相手なら、柔道着は武器にもなりえたが、芳情桃矢ほどの組み技の使い手相手では、自分が不利になるだけだ。

 手首をつかんでいるのと、柔道着のそでを掴んでいるので、どっちが外れ難いなど、すぐにわかるだろう。

 そして、これはどうしようもない話で、北条桃矢の方が、身体が大きく、力が強いことだ。

 柔よく剛を制す、と言われる柔道だが、身体が大きく、力もある方が同じ技を使えば、力が弱い者よりもより威力があがるのは、当然のこと。

 もし、二人の組み技の技術に差がないとしても、力の差で、英輔の方が不利なのだ。

 そして、組み技の技術で言えば、むしろ、英輔よりも北条桃矢の方が、優れているようにさえ見える。

 試合始まって早々、英輔は切羽詰っていた。

 だが、何も作戦も立てず、勝つ見込みもなく、英輔がそこに立っているとは、葵は思っていない。何か、逆転できる手を考えているはずだ。

 そのためには、自分から仕掛けるしかないはずだ。カウンター狙いというのは、確かに一発逆転を狙える方法ではあるが、実力差があっては、単に追いつけられるだけ……

 だが、葵の気持ちを裏切るように、北条桃矢が、動いた。

 

続く

 

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