「……」
英輔は、無言で帰ってきた。
悔しそうな顔をするでもなく、しかし、元気があるようでもなく、ただ無言だった。
葵達も、すぐには声をかけれなかった。
英輔の技術は、下ではない。このエクストリームの地区大会ににおいてなら、組み技の技術はトップレベルだろう。
だが、それなのに、北条桃矢に完全に負けていたのだ。相手も同じく、組み技だけで、打撃を使ってこなかったのにだ。
格の違い、いや、技術の違いを、英輔は思い切り思い知らされた。
通常なら、後は負けるだけの、消化試合になる。身体はまだ平気だろうが、普通、こうなってしまえば、心が折れる。
しかし、それは、普通なら、という話だ。
「……ふう、まったく相手にならないとは思ってなかったよ」
沈んでいたのは、ほんの数秒だけ、英輔はいつもの表情に戻った。それは、強がりというにはあまりにも自然すぎた。
「ドリンクくれるかい?」
「あ、はいっ」
美紀が英輔にドリンクを渡す。英輔は、息を切らしながらも、ドリンクを一口だけ飲み込んだ。
さっきの試合は、どちらも決定打はなかったものの、激しく動いていた。身体を素早く動かすために、必要なだけしか水分を取っていないであろう英輔の喉はかわいているはずだった。
もし、ここで冷静さを失っていなかったら、喉のかわきにかませて、大量の水分を取ろうとしたろう。
葵が見ても、英輔は意外に、いや、驚くほど冷静だった。ドリンクも、喉のかわきを少しだけ潤すだけにしているし、ちゃんとリラックスして休憩を取っている。
こういうメンタルな部分の強さは、いかに訓練したところで、なかなか上達しないものだ。英輔には、それが最初から備わっているのだろうか。
「どうですか、桃矢選手は?」
英輔が冷静さを無くしていないのを理解して、葵もしごく冷静に聞いた。
「うん、強いね。自慢じゃなくて、僕の戦った他の選手達も弱くはなかったけど、北条桃矢選手は、別格だよ。今まで、うちの先生以外に、ここまで技という技を封じられたことなんてなかったからね」
柔道なら全国でも、本当に体重さえ気にせずに、有数と言っていい実力を持つ英輔のことだ。下手をすれば、そこらで教えている柔道の先生達よりも強いかもしれない。安部道場の先生は、確か強いのだろうが、それは長い年月によって鍛えられた技というものがあってこそだ。
北条桃矢は、ナックルプリンスに出ている以上、二十二歳以下なのだ。普通なら、そこまでの技術を持てる年齢ではない。
「出す技出す技、まるで全部読まれてるしね。結局、技がちゃんと決まったのは裏投げ一回だし、それもうまく受け身を取られたしね。特に、組み手がうまくて、いい場所をとられる。むしろ、桃矢選手は柔道をすべきじゃないかな。金メダル確実だと思うよ」
冗談半分で言っているが、英輔の目は冗談を言っているようには見えなかった。それは英輔と柔道でオリンピックに出る選手では、その間には大きな差があるだろうが、英輔なら、少なくともオリンピックに出るような選手でも苦戦させれる、目がそう訴えていた。
「これで、打撃技を使われたら、正直手がないよ」
「そう言えば……北条桃矢は何で打撃を使わないんだい?」
坂下は、今まで思っていた疑問を口にした。鬼の拳を模したあの両拳は、確かに坂下ならさばける、という自信はあるものの、組み技と組み合わせて使えば、かなり強いのは間違いない。
「北条桃矢が組み技がうまいのはよくわかったけど、それだからって打撃を使わない理由もないと思うんだけど」
英輔は、少し考えて答えた。
「僕もそうは思います。桃矢選手なら、打撃を使っても、隙ができるとも思えませんし、おそらく、僕をしとめるの一ラウンドだけで十分だったと思います」
しかし、英輔の得意な組み技で勝負した結果、英輔は一ラウンドを生き残っている。いかに不利とは言え、それでも、試合が終わっているのと続いているのでは、その意味は完全に違う。
有利なのと、勝つのとは、相関関係はあるが、まったく別のものだ。強い者は、それをよく心得ている。勝つまで気を抜かず、勝たない限り、有利が意味のないものだと感じる。そういう人間が、勝つのだ。
坂下も、葵もそこを十分心得ている。一発逆転は、確かに確率は少ない、しかし、確実に存在するのだ。かつて、葵はそれで坂下に勝っている。
「多分、多分だけれど、桃矢選手は、この試合は組み技しか使わないと思う。少なくとも、僕が打撃を使うまではね」
英輔の推理は、あまり理論的とは言えなかった。
「その根拠は?」
すかさず坂下が突っ込みを入れたのは、そんな気持ちで勝てる訳がないと思ってのことだ。英輔は不利なのだ、最悪の状況を考えるにこしたことはないのだ。
「桃矢選手は、怒っているんだと思う」
「何に……て、そうか」
坂下も、それで北条桃矢が今何を考えているのか、少しわかった気がした。
「一試合目のあれね」
一試合目、地区大会は優勝確実と言われた北条桃矢は、一人の無名の選手と戦った。今から試合をするなどとはつゆも思っていないような姿で出てきた男は、完璧に決まったはずの北条桃矢のマウントポジションを、あっさりと返してしまった。
しかも、その後、北条桃矢の胸を肘で出血させ、反則負け。北条桃矢はその男と戦うチャンスさえなくした。
男の名は、武原修治、浩之の兄弟子であり、綾香をもう一歩というところまで追い詰めた怪物。
北条桃矢は、本人はどう思っているかは知らないが、怪物ではない。怪物と戦えば、その脆弱な、恐ろしいことに、それが脆弱なのだ、技術はあっさりとやぶられる。
その一試合目のおかげで、北条桃矢は、この大会ではかなりなめられてしまった。もちろん、なめる方も浅はかなのだ。怪物に勝てない天才をけなしたところで、天才にはかわりないのだから。
しかし、そのままなめられっぱなしでいられるほど、北条桃矢は人間が大きくなかったのだろう。
二試合目では、相手の選手を拳一発で吐かせた。準決勝では、組み技でならした英輔を、組み技のみで倒す、つもりなのだろう。
ある意味、北条桃矢が、この大会を一番なめているのかもしれない。
修治には勝てなかったが、それでも、他の選手に負けるなどとは、少しも思っていないのかもしれない。
しかし、どうだろうか? 実力は別にして、それをそのまま許すような人間が、ここに残っているだろうか。
その話をした英輔の瞳に、隠しきれない闘志の色が浮かんだ。
英輔が、そんななめたまねを、許すわけがないのだ。英輔だって、ここに、それ相応の覚悟を持って立っているのだから。
だから、英輔は、帯をほどき。
柔道着を、脱ぎ捨てた。
続く