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最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(35)

 

 英輔は、柔道着を脱ぎ捨てた。

 そして、上半身裸のままで、試合場に歩を進めた。

「英輔さん……」

「……本気だな」

 英輔の行った行為に、安部道場の面々は驚いていた。

 柔道着というのは、確かに、単なる練習着であり、柔道の規定で決まっているだけで、ついでにうまく使えば武器ともなるが、一般人にとってはただそれだけだ。

 しかし、柔道家が柔道着を脱ぎ捨てるという行為の意味は大きい。それは、ある意味精神を脱ぎ捨てていると同義だった。

 英輔は、しかし、その行為を、大した決心もせずに実行したように葵には見えた。

 柔道着を着ているというのは、組み技においての武器としての効果が強いが、相手がそれよりもさらに組み技がうまければ、柔道着はむしろ不利となる。

 一ラウンド目で、そのことを英輔は嫌というほど思い知らされただろう。北条桃矢にとっては、英輔の柔道着は、単に便利な道具でしかないのだ。

 英輔は、柔道家か?

 安部道場の面々はきっと柔道家だと思っているだろう。だから、もちろん自分の実力を鑑みてという部分もあるが、エクストリームに出なかったのだ。

 好意的に受け止めているとは言え、エクストリームにでる葵や英輔を、変わり者だとは思っているはずだ。

 それはそうなのだ。エクストリームは、柔道の試合をするわけではない。柔道の技は使って多いに結構、だが、柔道の試合ではない。

 柔道家が、柔道以外の試合に出るのはおかしい。しかし、英輔はエクストリームに出てきた。当然だ、英輔は、自分が柔道家などとは思っていない。

 英輔は、格闘家だ。

 柔道着を抜いで試合場にあがった英輔を見て、北条桃矢の表情が少し動いたような気がした。さて、それを不利と思ったのか、もしかしたら、北条桃矢も英輔のことを柔道家と思っていたのか。

 どちらにしろ、組み技を得意とする英輔が、自分にとって不利になる柔道着を脱いだという意味は大きい。いかに北条桃矢とて、もう一方的に試合を進めるわけにはいかないはずだ。

 さっきの、英輔の技を封じたとき、北条桃矢はどちらも英輔のそでをうまくつかんでいた。腕をそのまま握るのに比べて、その持ち易さは段違いだ。

 組み技で、腕を持たれる意味は大きい。それを外せる、外せないは、勝敗を左右してくる。

 英輔は、その足かせとなった柔道着に、何も未練はなかったろう。英輔の最終的に目指している場所は、勝利だけなのだ。

 英輔が柔道着を脱いだ。これを選手も観客もかなりのことだと見てさわいでいる。柔道が半日本国技である現状を考えれば、柔道着が神聖視されている背景もわかろう。それでさわいでいるのだ。

 何を道着一つで、と言うかもしれないが、精神的意味は大きいし、戦略という意味では、それはかなり大きいのだ。

「それでは、第ニラウンドを開始します。レディー……」

 審判の声を合図に、二人は構える。

 北条桃矢は、腰を落としてタックルの体勢。

 そして、英輔はというと……スタンスを小さくし、腕を少しひきつけた。

 意味のわかる者なら、絶対にわかる構えの違いだった。これには、葵も驚いた。一筋縄では勝てないのはわかってはいたが、これは、むしろ無謀だ。

 英輔の構えは、打撃の構えだった。

「ファイトッ!」

 北条桃矢も、怪訝な顔をしており、すぐには攻め込まない。英輔も、そのフットワークで小気味よくリズムを取っているだけで、すぐに距離と縮めようとはしなかった。

「これは、無謀というか何というか」

 そう言いながらも、何故か寺町はうれしそうだった。この男のことだった、それが単にわかりにくい組み技の戦いから打撃の戦いに変りそうなので喜んでいるだけかもしれない。が、もっと深い意味で笑っていても何ら不思議がない男でもある。

 それは、勇敢を通り越して、さらに無謀さえ通り越しそうな行為だった。

 浩之対寺町、打撃で有利な寺町に対して、浩之はかかんにも打撃戦をしかけていった。色々な作戦があったとしても、それは賭けで、しかもかなり分の悪いかけだった。

 しかし、今は状況が違う。北条桃矢は、英輔よりも組み技の技術は優れているだろう。柔道着だけの差ではないのは間違いない。

 だが、それだからと言って、打撃になればその方がいいとは言えない。

 英輔も、打撃技は使えないわけではない。柔道ばかりやっていたはずの人間が、あそこまで打撃を使えれば十分なのかもしれないが、しかし、今は実力不足だった。

 相手が、北条桃矢では、ほとんどの人間が実力不足になってしまうとしてもだ。

 しかも、北条桃矢は、打撃をまだ使ってきていない。むきになって組み技だけで英輔を倒そうとしている、というのは、かなり信憑性のある話だが、もし、英輔が打撃を使ったらどうだろうか。

 英輔が打撃を使ってはいけない理由は二つ。

 一つは、英輔よりも、北条桃矢は打撃に優れている。もし、打撃で真正面からぶつかれば、いや、おそらくかなりの罠を仕掛けても、勝てるわけがない。

 もう一つは、英輔が打撃を使うことによって、北条桃矢に打撃を使わせる決心をさせてしまうことだ。

 北条桃矢は、本人がどう思っているかは別にして、英輔のことをとことんなめている。それは英輔だって、人間だから腹立たしく思うこともあろう。

 だが、それは反対に大きなチャンスでもあるのだ。その屈辱に耐え、相手の隙を見て、試合に勝ってしまえば、相手をなめていた方がバカだということになる。

 英輔なら、腹をたてるよりも、むしろ後者を選ぶ、葵はそう思っている。英輔は北条桃矢の実力をかなり上だと思っている。格上の相手が、格下の相手をなめて、負けてしまったことなど、例はいくらでもある。

 英輔は、その前例に倣って、なめている北条桃矢の隙をつくのが一番正しい戦い方なのだ。

 葵の気持ちは一つ、英輔に勝って欲しいのだ。浩之とは戦えなくなったが、それでも、英輔には勝って欲しかった。

 それが、間違っているなどと思っていない。浩之の方をひいきにはしているが、それでも、浩之が負けてしまったからと言って、英輔に負けて欲しいわけではないのだ。むしろ、絶対に勝って欲しい。

 だが、ここに、葵の気持ちとは、まったく異なることを思いながら試合を観る男がいた。それは負けて欲しいとか、勝って欲しいとか、そういう意味ではなく。

「なるほど、面白くしてくれそうですね」

 ただ、試合を楽しもうとする格闘バカの言葉だった。

 

続く

 

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