北条桃矢は、そのまま腰を落とした上体で、じりっじりっと距離をつめる。
英輔の、突拍子もない作戦に、惑わされる気はないようだった。
英輔は打撃の構えを取ってはいるが、やはり、メインは組み技で来るだろう、と北条桃矢は考えているのだろう。
よしんば、英輔が本当に打撃で来たとしても、北条桃矢なら、軽く捌ける自信があるのだ。
どちらにしろ、英輔はやはり分が悪いのだ。
「英輔さん、何を考えて……」
「さあねえ、私にも、全然意味がないように見えるけど?」
葵も、その意味をつかみかねたし、坂下にも、その意味はわからない。
構えだけでも、だいたい英輔の実力はわかる。素人ではないが、北条桃矢に勝てるほどではない。少なくとも、坂下なら、あの程度の打撃の使い手なら、三十秒でKOする自信がある。
英輔が打撃の腕を偽っているとも思えない。今までも、それなりに苦戦もしたのだ。準決勝戦のために、技を温存などという余裕がかませるとは思えない。
タンッと北条桃矢は素早くタックルをかけた。それこそ、浩之と比べれば雲泥の差のスピードだ。
普通にタックルを切るならともかく、腰の浮いた状態でこれをうければ、いかに英輔とて……
バシィッ!
「えっ!」
あまりのことに、葵はおろか、安部道場の面々も驚きの声をあげていた。
英輔の右フックが、北条桃矢のタックルを崩したのだ。
ダメージはどこまであるかわからなかったが、北条桃矢は右フックの威力でしたたかに飛ばされ、タックルを失敗していた。
「へえ……」
「ほう」
坂下と寺町が、それぞれえらく感心した声をあげた。
北条桃矢がタックルを仕掛けた瞬間、英輔は、普通にタックルを切るときのように腰を落とそうとしていた。
だが、北条桃矢のタックルは、違う構えから腰を落とすまでの時間など間にあわないほど速い。
腰を、少し落としたときには、もう少しで英輔の腰を捉まえる瞬間だった。
北条桃矢のタックルが入るかわりに、全体重をかけた、英輔の右フックが、北条桃矢のテンプルを捉えたのだ。
これにはさすがに体重が違う北条桃矢でも、ダメージを逃がすために後ろに下がるしかなかった。そのまま受けていれば、完全なカウンター状態で食らうことになるのだ。いかに北条桃矢でも、それは危険すぎる。
タイミング、威力共に、ほとんど完璧な打撃と言ってもよかった。
「何だ、かなり使えるんじゃない」
坂下も、そう評価したほどだ。
直撃であったにも関わらず、北条桃矢はぴんぴんして英輔を睨んでいる。それから見るに、威力はともかく、タイミングは完璧だったと言える。
あそこで北条桃矢が前に出れば、ほとんど致命傷になるダメージを与えているタイミングだ。相手が腰をこれ以上落とせないところまでひきつけての右フックは、北条桃矢を下がらせるだけの効果があった。
「え……でも、確かに、タイミングは完璧でしたけど……英輔さん、あそこまで打撃を使えたの?」
打撃を使えるのはある程度知っていたが、あそこまで完璧となると、話が違う。葵は、安部道場の面々に訊ねた。
「私達も、知らないよ。打撃の練習につきあったわけでもないし」
「それはそうだね。でも、英輔さん、あそこまで、どうやって打撃を?」
異種格闘技をするなら、組み技も打撃も使えた方が有利なのは当然だ。だが、それはえてして、片方、または両方が中途半端な状態になる危険性をはらんでいる。
どちらかに特化した方が、その一方に関しては、熟練できるのは当然だ。もう片方をおざなりにしても、それをする意味はある。
英輔は、間違いなく、組み技に特化した選手だと思っていた。そこから、いきなり打撃を使うから、英輔の打撃は有利に働くものだとばかり葵は思っていた。
だが、英輔の使った打撃は、間違いなく、打撃格闘家の、しかもかなり高いレベルだ。
パワーで負けるのを、タイミングでカバーするなど、葵でもなかなかできないのだ。
「あれなら、打撃でも十分戦え……」
「それは、さすがに無理じゃない?」
葵の意見を、坂下は簡単に否定した。
「でも、あれだけ打撃が使えるんですから、打撃で戦っても、かなりいけると私は思います」
北条桃矢に打撃を使われたとしても、これなら何とかなるかもしれない。そういう期待さえ持てる。
「でも、そのわりには自分から攻めないでしょ?」
「え……?」
坂下の言う通り、英輔は、ニラウンドの最初は自分がアドバンテージを取ったのに、攻めようとはしていなかった。むしろ、相手のタックルなりを誘っているように見える。
「……完全カウンター狙い?」
おかしな行為、そう言うしかなかった。
カウンターというのは、確かに威力は高い。力で劣る選手でも、カウンターをうまく入れることができれば、自分よりもパワーのある選手に打ち勝つことも可能だろう。
だが、だからと言って、いつも使えるようなものではないのだ。
綾香ほどの怪物なら、ただただカウンター狙いなどという無茶苦茶なものもできようが、普通の人間には、それだけの動体視力、反射神経、度胸、技術、どれを取っても足りない。葵や、坂下でもそれはできない。
であれば、英輔ができるとは思えない。よくやっているとは思うが、坂下から見れば、英輔は打撃に関しては格下なのだ。
しかし、そのおかしな行為、これがわざとではなく、仕方ない行為だと思えば、それは案外簡単に結論に達する。
坂下は、まだ結論に達しない葵に、簡単に説明した。
「つまり、藤木選手は、打撃を一方に偏らせたんでしょうね」
「一方……あっ!」
今までの戦い方から見ても、それは確かに明らかだった。
「片方を捨てたのね。組み技の選手としては、むしろよく考えた結果こうなったんだろうけど、実際、なかなか考えてるわよ」
安部道場の面々はまだ首をかしげているが、葵にはそれだけで十分内容は理解できていた。
英輔は、自分では攻めれないのだ。少なくとも、打撃で決めることができないのだ。英輔の腕では。
「英輔さんは、コンビネーションが使えないんですね」
「そういうことよ」
続く