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最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(38)

 

 ここに来て、それはない。

 誰もがそう思っていただろう。対峙している北条桃矢はもちろん、葵も、坂下も、誰もそれを予測しなかった。

 いや、寺町だけは、その格闘バカ的勘で気付いていたのかもしれない。

 もしかしたら、とっさにやられれば、北条桃矢はそれをかわせたのかもしれない。それこそ、反射的に身体は動くだろうから。

 しかし、英輔の、酷く当たり前のように構えを変えたのを見て、北条桃矢は混乱した。それはない、と思っていたどころか、作戦から除外していたものを英輔は使おうとしたのだ。

 ガシッと英輔は北条桃矢の腰に腕をまわした。

 しかも、手が後ろでロックされる。

 決まった!

 さっきまではいいようにあしらわれていた英輔のタックルが、完璧に北条桃矢を捉えていた。

 北条桃矢は、驚くようにして、腰を落としたが、少なくとも完全にロックされた腕を外すのは難しい。

 そして、北条桃矢の反応は、遅すぎた。

 英輔はそのまま北条桃矢を後ろに転ばす。十分な体勢で腰を落とせなかった北条桃矢は、それに抵抗できずに、後ろに倒れた。

 英輔は、素早く北条桃矢の上を取ろうとするが、北条桃矢も、やっと我に返ったのだろう、すぐにガードポジションを取る。

 英輔の胴体に脚をまわして、英輔の身体を脚ではさむのだ。これはガードポジションと言われ、いかに上の方が有利と言われる組み技でも、そう簡単にはこれから技をかけることはできない。柔道でならば、道着があるので上から締め技も使えるが、両方が上半身裸では、むしろ下の者の方が技がかけやすいかもしれない。

 しかしそれでも、英輔は簡単に北条桃矢を倒してみせた。さっきまでは、決定的なところで技を封じられていたのが、嘘のようだった。

「すごい、英輔さん」

 北条桃矢ほどの相手からテイクダウンを奪うのは、並大抵のことではないのだ。さっきも、裏投げで取ってはいるが、むしろタックルなどという、相手も十分警戒しているスタンダードな方法で取るのは、実力がなければできない。

「あのまま打撃で戦えばよかったのに」

 坂下は、そうきつく評価したが、しかし、顔はきつい評価をした者の顔ではなかった。どこか嬉しそうにさえ見える。

「ほら、俺が言った通りでしょう。楽しませてくれそうだって」

 寺町にはわかっていたのだろう。打撃を使って、北条桃矢に一泡吹かせるのが英輔の狙いではなかったのだ。

 自分を、エクストリームを、しいては、この試合を甘く見ていた北条桃矢に対して、英輔は意地を見せてやったのだ。

 なるほど、打撃を使えば、北条桃矢はうかつには攻めてこれないだろう。だが、そのままでは、コンビネーションのない英輔には勝てないのだ。

 なめた相手に対しての意地と、戦略と、勝つ可能性。全てを考え、英輔の選らんだのはその手だった。

 組み技で、勝負する。

 倒れたままで素早い組み手を展開する英輔の目は、もう誰が見てもわかるように、闘志にあふれかえっていた。

 英輔は、怒っているのだ。冷静に作戦を考え、実行してはいるが、腹にすえかねるものがあったのだ。

 その怒りの矛先は、実力はどう見ても自分以上にあるのに、打撃を封じている北条桃矢に向けられていた。

 英輔の動き一つ一つが、ものを言っている。

 あんたは、僕と、他の選手もなめているかもしれないけれど。

 さっきまでは、組み手で絶大なアドバンテージを取っていた北条桃矢だったが、今回はそれがない。むしろ、上にいる英輔の方が押しているのではというぐらいだ。

 道着がなく、腕をつかもうにも、そう簡単にはつかむことはできないし、上にいて体が自由になる分、英輔は腕をつかまれても、簡単にそれを外せた。

 倒れた状態なので、一方的に使える、いや、使っている打撃を、英輔は打てないが、今は組み技でも英輔が押していた。

 なめたまま終われるほど、格闘ってのは甘くないんだ。

 英輔の両腕が、北条桃矢の左腕をがっちりとつかんだ。深く持っているので、下になって身動きの取れない状態では、外すのは難しいし、片腕では、いかに北条桃矢とて、技はかけれない。

 英輔が腕がらみをかけようとした一瞬、腰が浮いたその瞬間を狙って、北条桃矢は英輔を脚の力で蹴り離した。

 相手の身体にくっついた状態であったので、打撃とは判定されなかったようだが、それは反則ギリギリの行為だった。

 英輔はすぐに追い打ちをかけようとするが、北条桃矢は、その一瞬の隙で立ち上がって、今度は十分に腰を落とした。

 すぐには追撃が無理と感じると、英輔はすぐに後ろに下がった。

 確かに、今の状況ならば、むしろ英輔の方が押せていたかもしれない。しかし、英輔は、そこであえて後ろに下がった。

 あの体勢から、待ったなしで立ち上がる北条桃矢の技術は凄い。普通なら、歓声と感嘆の声が、観客から半々で上がるだろう。

 しかし、今回は、それさえなかった。観客は、ただざわついているだけだった。

 華麗に上に乗られた体勢から逃げた北条桃矢の技術よりも、英輔が北条桃矢を明らかに押している英輔に観客の興味が行っているのだ。

「この藤木英輔ってやつも、なかなか酷いことするじゃない」

 坂下は、にやりと笑いながら言った。

 観客の反応を見るまでもない。さっきまで、なめていた相手に、あっさりと押されているのだ。それを、英輔は北条桃矢にわからせたのだ。それだけの時間と状況を、英輔はわざと北条桃矢に与えたのだ。

 意地が悪い、と言えなくもないが、なめているのは北条桃矢、そして、英輔は、それに返したのだ。その意地を持って。

 さあ、今度こそ打撃を使わないと、勝てないですよ。

 ランランと輝く、闘志と怒りに燃えた英輔の目が、無言で北条桃矢に選択をせまっていた。

 北条桃矢の心の中では、葛藤がうずまいているはずだ。英輔が自分に打撃を使わせようとしているのは火を見るより明らか。しかし、自分にも意地がある。

 北条桃矢の心に、迷いが生じる。戦略の迷いなどではないし、相手に意表をつかれた迷いでもない。

 自分のせいの、迷いだ。

 英輔は、再度腰を落とす。

 ビクッとおびえるように、北条桃矢の身体がゆれた。北条桃矢は、今英輔のタックルを、明らかに恐れていた。

 心が、折れた。

 その脆いものが割れる音が、響いたような気がした。

 英輔は、そのまま、何の迷いもなく、何の作戦も使わずに、北条桃矢に、タックルをしかけた。

 一瞬、北条桃矢の顔が恐怖に歪み。

 ズバンッ!

 北条桃矢の左フックが、突っ込んできた英輔のテンプルを捉えた。

 

続く

 

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