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最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(39)

 

 これ以上ない、というタイミングで、北条桃矢の左フックが、英輔のテンプルに入った。

 が、英輔は、前進は止めたものの、その場で足をふんばって倒れなかった。

 そして、北条桃矢は、追撃できなかった。

 一撃を入れたのは北条桃矢だったが、明らかに身体が縮こまっていた。次の一撃を入れれば、きっと勝てるのに、手が出ないのだ。

 時間にして、約二秒、空白の時間ができる。体力の回復をはかるには、あまりにも短い時間ではあったが、ダメージが抜け、動くまでの時間はあった。

 英輔が顔をあげ、北条桃矢の目をにらみつけた。その、闘志にあふれる目で。

「くっ!」

 ヒュバッ!

 それにつられるように放った北条桃矢の右ストレートをかいくぐり、英輔は懐に飛び込みながら、腕を取った。

 そして、北条桃矢の手首をつかんだまま、北条桃矢の巨体を背中に背負った。

 一本背負い。

 が、北条桃矢は、素早く腰を落としていた。北条桃矢のような身長のある人間には、背負いはかかりやすい。重心が上にあるからだ。だが、重心を下に落としてしまえば、体重が物を言って、投げるのは難しいだろう。

 しかも、投げを防がれてしまえば、その後は相手に後ろを取られてしまう。

 一ラウンドの丁度反対、北条桃矢が、英輔の腰を後ろからつかんでいた。

 が、英輔は持ち上げられる前に、素早く前に倒れる。

 しかし、そうなれば、今度は北条桃矢が上に乗り、やはり有利な状態になるだけだった。

「まずいっ」

 安部道場の面々は、すぐにそれに気付いたようだったが、アドバイスするだけの時間はなかった。

 そして、する必要さえなかった。

 英輔は、そのままくるりと一回転するようにして、北条桃矢の足を掴んで前に倒れた。

 北条桃矢の身体が、前につんのめるように倒れる。

 うまい、誰もがそう思った。

 そして、安部道場の面々は思いつかない組み技の攻めだった。

 英輔は、後ろを取られるとみるやいなや、素早く前に倒れた。そのまま倒れるだけなら、単に北条桃矢に上に乗られて、非常に不利な体勢になっていたろう。

 だが、英輔は、ただ倒れるだけでなく、相手の脚を軸にするようにして、自分は相手の身体に回転した脚がひっかかるようにして前転したのだ。

 英輔が倒れると、北条桃矢は前つのめりに倒れ、英輔は北条桃矢の脚を掴んでいる状態になる。

 そして、英輔はそのまま脚の関節を狙ったが、北条桃矢は、素早く脚を抜いて立ち上がった。

 しかし、北条桃矢は追撃してこなかった。北条桃矢なら、脚を抜いた後でも、十分倒れた英輔を狙えたはずなのに、それをしなかった。

 いや、できなかったというのが正しいのかもしれない。

 英輔も、それを知っているかのように、技を抜けられたわりには悠然と立ち上がった。むしろ、わざと隙を見せているようにさえ見える。

 観客達も、何が起こったのか理解できたようだった。かなりざわついている。さっきまでの素早い攻防にも目が行っていなかったようだった。

 北条桃矢が、打撃を使った。

 それは、あれだけの猛威を振るっている打撃を、まったく使わなかったことぐらい、観客も気付いていた。おそらく、今回は打撃なしで決めるつもりなのだろう、と思っている観客も多かったろう。

 しかし、それはあえなく、そしてあっけなく、崩れ去った。

 たった一度のタックルで、北条桃矢の自信や、甘く見ていたその慢心を、英輔は崩してみせたのだ。

 北条桃矢に打撃を使わせれば、自分が不利になることなど、重々承知のはずなのだろうが、英輔は、北条桃矢を、精神的に追い込んだ。

「脆い……」

 しかし、寺町のつぶやいた一言が、一番正しかったのかもしれない。

 英輔は、確かに北条桃矢に打撃を打つようにしむけた。北条桃矢が打撃を使うのは、しごく当然の話で、反則でも何でもない。北条桃矢は、打撃を使っても、何も責められないはずだった。

 だが、北条桃矢が、英輔をなめ、打撃を封印したことにより、事態は変った。

 打撃なしで戦う、一度そう決めたからには、北条桃矢は、打撃を使ってはいけなかったのだ。

 なるほど、打撃を使えば、北条桃矢が有利なのは明らか。さっきまでは、打撃なしでも押していたのだ。英輔の惑わすような作戦さえなければ、打撃も組み技も使えば、圧勝できるだろう。

 しかし、いや、今でさえ、英輔には勝てるかもしれない。北条桃矢の技術は、何を言っても優れているのだ。両方を使われては、いかに変幻自在な英輔とて、捌き切れるものではなかろう。

 だが、この試合の勝敗を除外して、北条桃矢は、脆かった。

 北条桃矢は、素早い打撃で英輔を攻める。コンビネーションでは、英輔の方が明らかに劣っているのだし、打撃に関して言えば、やはり英輔には隙は多いのだ。それを捌き切れる訳はなかった。

 シパーンッ!

 北条桃矢のスナップの効いたストレートのような左ジャブが、英輔の顔面を捉える。英輔は、ほとんどガードもできないままそれを食らった。

 左フックのダメージが抜け切っていないのだ。しかも、北条桃矢は、牽制のような打撃は使わない。明らかにダメージだけを狙った打撃を打っている。

 もう、英輔のできることは、おそらくないだろう。ダメージが大き過ぎる。この状態で、確かに浩之は立っていたが、それは相手が寺町だったからだ。

 このザコ相手では、それだけのテンションにまで、身体と心は持っていけない。

 北条桃矢の素早いタックルを、英輔は何とか首を取って止める。しかし、それは最後の抵抗だろう。組み技では倒されないつもりでいるのだ。

 英輔は、今負けようとしている。実力が、正直違っていたのだ。寺町と浩之の差よりも、それは大きかったのかもしれない。

 だが、勝とうとしている北条桃矢の顔は、むしろ恐怖でゆがんでいるようにさえ見えた。

 北条桃矢は、英輔が怖いのだ。だから、全力をかけて英輔を倒そうとしている。もう、打撃を使ってしまった、などという思いも残ってはいまい。

 北条桃矢は、確かに技術的に優れている。

 組み技が不可能と判断した北条桃矢は、力まかせに持たれた首を外し、また距離を取った。

 そして、両拳を上でかまえる。

 この鬼の拳の模写も、確かに威力は高い。

 しかし、北条桃矢は、心が脆い。

 その思いを否定するかのように、北条桃矢は、強く両拳を握り締めた。しかし、それだけで、その心、強くなるわけではないのだ。

 スパーンッ!

 右の片角が、英輔の顔面を打ち抜いた。

 

続く

 

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