ガツガツガツガツ
「……」
「……」
日差しもそろそろ初夏の匂いをかもし出している昼の木陰には、浩之のお弁当を食べる音しか聞こえなかった。他の者は、皆箸をとめてそれを見ている。
「あかり、お茶」
「う、うん。はい、麦茶」
身体を冷やすと良くないからと用意した熱いお茶、食事を円滑に進めるための麦茶、運動の後になるだろうから用意したスポーツドリンク。あかりはこの三種類の飲み物を用意して、それを適材適所で渡していた。
いや、さっきから麦茶以外渡していないという話もあるが。
「サンキュー」
浩之は軽く礼だけを言うと、今口の中に入っているものと一緒に、ごくごくと喉を鳴らしながら飲み込む。
「……っぷはあ」
浩之は一息つくと、そこでさらに止まらずに、また綾香のお弁当を掻きこんだ。
「何と言うか……私のお弁当、そんなに美味しかったのかしら?」
綾香も、かなり半信半疑だ。というよりも、そこらに並べられたあかりのお弁当だろうが葵のサンドイッチだろうが、浩之は一生懸命口につめている。
綾香は天才。この点は間違いない。しかし、料理というものは、才能がなかろうができる反面、結局は経験に頼ることになる。
今まで料理などほとんどやってこなかった綾香の料理が、誰か取るのではと思っているような浩之の食べっぷりを発揮させることはないだろう。
「よっぽど腹が空いてたのか、それともいつもこんな感じなのか?」
浩之がご飯を食べているのをほとんど見たことのない坂下は、葵の脇をつつきながら訊ねた。
「いえ、たまに一緒に食事はしますけど……大食漢、というわけじゃなかったと思うんですけど……」
浩之は痩せている。最近は筋肉もけっこう付き出したとは言え、反対に脂肪は余計に落ちたので、それでもボクサーのような体格だ。
痩せの大食い、とはよく言うが、浩之は一般高校生の食欲から言えば、別にそんなに珍しいほど食べるわけではなかった。
「いつもにも増していいたべっぷりだよ、浩之ちゃん」
あかりは、別に自分のお弁当がメインで食べられているのでもないだろうに、食事を続ける浩之をにこにこと見ている。
「あんた、ほんっとによく食べるわねえ」
志保のあきれたと言わんばかりの声にも、まったく反応せず食事を続ける浩之は、まさに欠食児童だった。
「……っふう」
わずか数分で、けっこうな量を作ってきたはずの綾香のお弁当は平らげられた。
「ごちそうさま……と言いたいところだが、こっちも食べていいか?」
浩之は空のお弁当箱を置くと、まだ残っているあかりと葵のお弁当の方を見た。
「私は別にかまわないけど……」
あかりはまわりの人間を見渡すが、誰一人として止める者はいなかった。いや、あきれかえっていて、返事ができないだけなのかもしれないが。
「まあ、だいぶ落ち着いたから、ゆっくり食べさせてもらうわ」
浩之はそう言うと、さっき大きなお弁当箱を一個即効で平らげたのを忘れたかのように、あかりのお弁当からおにぎりとから揚げを取り皿に取った。
「ゆっくりってねえ……そんなに私の料理おいしかったの?」
自分の料理の出来を聞くのではなく、その勢いにあきれかえっているのか、ため息まじりに苦笑しながら綾香は聞いた。
「ん、まあまあ」
浩之はさしてそれには何も思っていないのか、ゆっくりと言ったばかりなのに、おにぎりを口にほうばった。
「まあまあって……もう少し感想はないの?」
「ん? ……ああ、うまかったぞ。ほとんど料理を作ったことがないにしては。あかりの境地に達するのはまだまだ先の話だけどな」
料理の出来に関して、他の女の子を引き合いに出すとは失礼だと綾香は思いながらも、珍しく、いや、本当に珍しく、それを口には出さなかった。
それよりも、浩之のくいっぷりの方が今は興味があったからだ。
「センパイ、そんなにお腹すいてたんですか?」
葵は、試合の前は、あまり食事を取らない方がいいと浩之に言っておいた。もちろん、栄養を取っておくのは大切だが、あまり食べ過ぎると動きを鈍くする。カロリーメイトの一つぐらいと、後は水分を適度に取るぐらいがいいと。
「ん、いや、むしろ緊張であんまり食欲はなかったと思ってたんだけどなあ」
「この食べっぷりで、食欲がないとは言えないと思うけど」
坂下も女の子にすればかなり食べる方だが、そんなものとはまったく違うレベルで浩之の食欲はあった。
「それが、食べだすと、急にお腹が空きだしてな。やっぱ疲れてたんだろ、試合厳しかったしなあ」
のん気に言う浩之だが、確かに、浩之の身体はボロボロだった。今起きてお弁当を食べているのだって、本当は安静にしていた方がいいのかもしれない。
だが、浩之は精神的にもタフだったし、おそらく、肉体的にもタフなのだろう。あれだけのダメージを受けた直後で、これだけ食べれるというのはむしろそら恐ろしいものを感じる。
この異常な食欲も、説明がつかないわけではない。
受けた肉体のダメージを、少しでも早く回復させようと、身体が栄養を欲しがっているのだ。
綾香の筋肉痛と同じだ。早い回復のために、身体がすぐに反応しているのだ。
普通は、ボロボロの身体で食べ物を取っても、消化吸収にまで力を割けずに、あまり効果はないのだが、こと浩之にはその心配もないのかもしれない。
技術とか、努力とか、そういう部分での才能というのも、やはり大切ではあるが、身体が、最初から格闘技に向いているのだ。
素早い回復に、素早い消化吸収。
必要と感じれば、いつもの何倍でも補給できるなど、一般人では考えられない。
それも羨ましい才能……とは、葵もさすがに思わなかった。
普通にこんな食べ方したら……太る。
むしろ太った方がいいぐらいの葵だが、そこは女の子だ。この食欲は、恐怖だ。
そしておそらく、浩之はこれだけ食べても太りなどしないのだろう。たまにいるのだ、こういう女の子の敵のような男が。
「ん、どうした、みんなは食べないのか?」
「い、いえ、私は後で試合がありますし……」
「そんなにお腹も空いてないしね……」
ここにいる誰もがそう思っているのか、まだ平気で食事を続ける浩之を見ながら、誰もお弁当に手をつけない。
不思議がりながらも、から揚げを咀嚼する浩之を、ただ一人、あかりだけがニコニコと見ていた。
続く