浩之は、お腹がいっぱいになり、けっこう幸せなお昼休憩を取っていた。
まわりは女の子だらけだし、お腹はいっぱい。さすがに、この状況で綾香に膝枕を頼む勇気はないが、それでもけっこう幸福な時間だ。
だが、幸せそうに惰眠に入りかけている浩之とは別に、一人、表情を厳しくしていく人物がいた。
葵だ。さっきの昼食も、自分の持ってきたサンドイッチを一切れと、スポーツドリンクを少し口にしただけだ。
緊張ではない。身体の体調を整えるためだ。
そっか、葵ちゃんは、午後から試合か。
正直、浩之にはかなり長い午前だったので、すでに一日が終わるような気がしていたが、考えてみれば、葵はこれからが本番なのだ。
葵は、さっきから柔軟を続けている。浩之や綾香の言う事に従っているのか、前よりは身体も柔らかくなっているように見える。
「浩之は気楽ね、もう当分試合ないものね」
「まあ、負けちまったからな」
真面目に準備運動する葵を横目に、寝そべっている浩之を見て綾香はちゃちゃを入れる。浩之は、綾香の言い方に少しひっかかるものを感じたが、とりあえずそれは無視することにした。
「それを言ったら、綾香だって今日は試合ないんだから、気楽だろう?」
「そうねえ、退屈って方が大きいかな」
綾香にしてみれば、そうなのだろう。浩之のように地区大会などで苦戦することもないし、きっと楽しい相手というのにも当たることはないのだろうが、少なくとも、試合がなくて暇なのよりはいいのかもしれない。
試合があってくれれば、その間は綾香がいじめる相手は俺じゃなくてそいつになるんだけどなあ。
もっとも、相手が誰であろうとも、一分もたないような気がしないでもない。去年だって、結局は綾香が圧勝だったらしいのだ。
ブンッ!
柔軟の終わった葵が、今度は打撃の練習をしだした。ここにはサンドバックもないし、ミットも持ってきていないので、空打ちにはなるが、それでも、こんな小さな女の子から繰り出される音ではないような音を立てて、ハイキックが風を切った。
「へ〜」
「わ〜」
志保とあかりが、浩之から見たらかなりバカのように感嘆のため息をついている。しかし、それも仕方ないことだろう。葵の身体は、あかりや志保よりも小さい。その身体から、見事なまでのハイキックが繰り出されるのだ。驚かない方がどうかしている。
シパパッ
今度は、葵のワンツーが空を切る。そのスピードは、二人には見えたかどうかもわからない。それなりに練習をつんできた浩之には何とか目視はできるが、素人の二人には、目も留まらぬ打撃だろう。
「ヒロもちょっと見ない間に、何か別人みたいになってたけど……この子も、すごいね」
志保が素直に褒めるのだから、かなりのものだ。
よくテレビなどでも格闘技をしているとは言え、テレビと、実物を目の前で見るのでは、迫力が違うだろう。
しかも、葵のハイキックは群を抜いているのだ。
モーションをほとんど必要とせず、脚があがったと思った瞬間に、前進のバネと力と回転を乗せて打ち込まれる上段の回し蹴り、しかも、葵はそのハイキックを放った後でも、ぐらつきもしないのだ。
練習のなせる技とは言え、普通の女の子のできることではない。
実際、綾香ほどではないにしろ、こんな地区大会で負けるとは思えない。あがり性さえなければ、空手でもかなり有名になっていただろうことは想像に難くない。
「うん、こんなに凄い子だったなんて、私知らなかった」
あかりは、葵に面識はあったし、格闘技をしていることも浩之から聞いていたが、ここまで凄いとは想像していなかっただろう。
しかし、驚いているのは何もあかりや志保だけではなかった。
「へえ……」
坂下も、神妙な顔をして感心している。それは綾香も同じだが、綾香は坂下よりも、もう少し嬉しそうだ。
浩之も目を見張っていた。
「なあ、綾香、俺の気のせいかもしれないんだけどさ……」
「多分、間違いじゃないわよ」
浩之の目測を、綾香はすぐに認めた。
ハイキックがいやに切れる。葵は、何度も練習を重ねるタイプなので、技はだいたい安定しているのだが、もちろん波もある。
今日は、その調子の良い波のときに比べても、さらにハイキックに切れがあった。
……ああ、俺もまだまだだな。
今日の成長は驚異的で、自分でも今日という日は一番成長できたと自覚している浩之も、それが単なる低レベルの自己満足なんだと理解させる、技の切れだ。
これが強いというものか。
寺町と戦ったときの差よりも、よほど大きな差を浩之は感じていた。寺町は、確かに強かったが、もしかしたら、と思えた。
今の葵のハイキックを受けて、立っていられる自信はない。反対に、一撃でやられる自信が生まれてくるほどだ。
「葵、調子いいみたいじゃない」
綾香が声をかけると、葵は練習を一時中断して振り返った。
「はい、自分でも今日は調子がいいと思います。それもこれも、センパイがいい試合を見せてくれたからです」
「よしてくれよ、葵ちゃん。俺は単なる負け犬なんだからさ」
いつもの尊敬の眼差しを、浩之は少し苦笑して答えた。葵に尊敬されるのは、葵でなくとも、これだけの技を使える人間に尊敬してもらうのは、嬉しいことなのだが、所詮自分は負けて帰ってきたのだ。
しかし、葵は首を大きく横にふった。
「そんなことはないです。センパイの試合を観たおかげで、私、やる気が出ましたから。それが証拠に……」
そう言いながら、いつものスタンダードの構えを取った葵の表情が、キッときつくなる。
シパパパシュッ!
右、左のワンツーから、右のハイキック。
動作にまったくよどみもなく、隙も浩之からはさっぱり見つけられない。
間違いなく、葵は強くなっていた。それは、昨日よりも、今朝よりも、浩之の知る葵よりも間違いなく。
葵は、嬉しそうに笑って、浩之を見た。
「こんなに、技が切れるんです。これは、センパイのおかげですよ」
きっと、浩之は寝た子を起こしてしまったのだ。それを悪いこととは言わないが、起きた葵の技は、この後、多くの相手を倒すだろう。
それが俺でなくてよかった、浩之は、半分本気でそんなことを思っていた。
続く