体育館には、午前よりも人が集まっていた。
「すごい人ですね」
葵は、まさかここまで観客が増えるとは思っていなかったのだろう、驚いている。
「まあ、こんな狭い体育館じゃ仕方ないか」
確かに、そんなに大きな体育館ではないのだが、それにしても、観客席はほとんど全てうまっている。午前の試合が終わって、負けて帰っていった選手や、それについてきた観客がいるだろうにも関わらずだ。
「原因は何となくわかるけどね。まず、浩之」
「俺がどうかしたか?」
綾香にいいようにボコられた浩之ではあったが、持ち前の打たれ強さと言うか、ゴキブリも裸足で逃げ出しそうな生命力で、葵と綾香の後ろに立っていた。
「セ、センパイ、大丈夫ですか?」
「ああ、何とかな」
しかし、葵ちゃんも心配するなら、綾香が殴るときに止めて欲しいのだが。浩之は、そんなわがままを心の中で唱えたりしてみた。
「復活早いわね」
「おかげさまでな。で、何が俺のせいだって?」
「この観客よ」
浩之は、改めて、体育館を見回した。
人、人、人。綾香ではないが、こんな場末の体育館に、よくもこんなに人間が集まったものだ、と思った。
「エクストリームが人気がある証拠じゃねえか」
「もちろんそれもあるけど、浩之がさっきいい試合したから、他の観客も、帰るに帰れなくなったのよ」
「いや、そんなおおげさな……」
浩之は謙遜しているが、浩之対寺町の試合は、確かに凄かった。おそらく、観客のほとんどを魅了したろうし、他の選手も、自分が負けたからと言って、帰るのは惜しくなってきたのだろう。
まあ、あんな試合が観れるのなら、残っておいてもいいのではないのか。
そんな風に思った人間がほとんどだったのだろう。なので、午前中でいなくなるはずの観客や選手が、ほとんど抜けなかったのだ。
「それと、私」
「……まさか、自分の人気だとでも思ってるんじゃないだろうな?」
「まあ、ぶっちゃけそうね」
浩之は、「こいつは……」という顔をしているが、綾香は嘘をついている気もないし、間違っても自信過剰なわけではない。
事実だ。
「私の人気、つまり、女子エクストリームの人気がうなぎのぼりなわけよ。だから、地区大会とは言え、けっこう注目されてるの。動員数を見ればわかるでしょ?」
「それが綾香のおかげってところ以外はな」
だが、それもあながち外れではないのが恐い。
綾香は強い。おそらく、他の階級に出ている女子や、男子の選手であろうとも、綾香とは戦いたくないと思ったろう。または、公式戦では戦いたくないと思ったろう。
桁外れに強いくせに、これまた桁外れに綺麗なのだ。卑怯とは、綾香のためにある言葉なのかも知れない。
ほとんどメディアには出てこないとは言え、インタビューぐらいは受けているだろうが、さらにさっぱりとした面白い性格も、それなりに伝わっているはずだ。
写真集はないのかと、雑誌会社に問い合わせがあるほど、プロポーションもばっちりだ。試合の写真も、おそらくはけっこうな高値で取引されているかも知れない。
とどめに、来栖川財閥のお嬢様。
ここまでそろった女の子など、全世界探したっているものではない。
立っているだけで、華がある。先天的に持ったものが、一般人とは違うと認識させられるほどの差だ。
格闘界のアイドルの効果は、こんなところにも出ているのだろう。
「で、その結果が重なって、地区大会で、私が出場しているわけでもないのに、こんなに人が来るわけね」
「もし、綾香が大会に出てたら、どうなってた?」
浩之は、綾香の自信がいかほどのものか、ためしに聞いてみた。
「うーん、多分、地区大会なのに、入場料取ると思う」
それでも、おそらくはこんな体育館など満席にする自信が、綾香にはあるのだろうが……。むしろ、東京ドーム用意しろと言わなかっただけ、ましなのかも知れない。
「ま、人が多いに越したことはないわね。葵の晴れ舞台には、少し地味だと思ってたのよ」
「そんな……こんなに観客がいたら、緊張してしまいます」
葵は、少し苦笑いしながら答えた。前ほどの極度の緊張、というのはないようだが、ここまで観客がいれば、普通の人間だって緊張してしまうだろう。
「大丈夫大丈夫、別に観客全員と戦うわけでもないんだし。それに、浩之もいるでしょ」
「あ……」
葵は、顔を赤くして、ちらっと浩之の方を見た。
浩之の存在は、葵にとっては本当に心強いのだろう。それは浩之も嬉しく思うし、力になってあげたいと思うが、いつ綾香からの鉄券が飛んでくるかわからないので、戦々恐々としていたりする。
葵を、強敵だと公言した綾香だ。葵の一番の弱点である、上がり性を攻めない理由はないもんな。
綾香は、敵とみなせば、どんな相手でもフェアすぎるほど、全力をかけて倒しにくるだろう。そんなことをしなくとも、勝てるとわかっていてもだ。
精神的に攻めるなどという、格闘技とは直接関係ない場所で葵を攻撃する可能性だって、恐いかな、綾香にはある。
いや、いくら綾香でも、そこまで酷いことはしないか……?
少し疑問符は残る部分ではあったが、それでも、葵は綾香のお気に入りだ。いかに綾香が戦いに、違う意味でフェアであったとしても、そこまで酷いことはしないだろう。
浩之の心配を他所に、綾香は、何か思いついたのか、それとも、前から作戦を練っていたのか、にこっと笑うと、葵の手を取った。
「葵ちゃん、逃げろっ!」
「え?」
浩之はとっさに叫んでいたが、葵には何のことかわからなかったようだった。
しかし、浩之は綾香の笑みを見て、葵の身が危険だと判断した。綾香がそんな風に笑うときは、決まってろくなことを思いついていないのだ。
「くっ!」
間に合うか?
浩之は、葵の肩をつかもうとした。このまま綾香に連れ去られれば、何をされるかわかったものではなかったからだ。
しかし、浩之の反射神経を持ってしても、現実は酷いものであった。
「じゃあ、ちょっと行って来るわね」
綾香は、そう言い残すと、葵の手をつかんで、素早く人垣の中を抜けていった。
「逃げろ、葵ちゃん!」
「え、えぇ?」
やはり、その現実がいまいちつかめない葵は、そのまま綾香に連れ去られた。
無力な浩之にできることは、葵の無事を祈るだけであった。
続く