午後からの試合がもうすぐ始まるので、一試合目に出る選手はすでに試合場に立っていた。後は、太鼓の合図を待つだけだ。
葵達が注目しているのは、情報によると注目株のキックボクサー、吉祥寺春選手だ。
「えーと、あそこの選手が吉祥寺春選手ですね」
「へー」
「ほー」
「ふーん」
葵の言葉に対する答えは、まったく真面目に聞いているようには聞こえなかった。
「……何か、皆さん興味ないみたいですね」
葵としては、注目株の選手がどれだけのレベルなのか知っておきたいところなので、この試合は見逃せなかった。
しかし、他の三人は、別にそう思ってもいないようだった。
「私は今回、アドバイスしないし」
「まあ、試合が始まればともかく、今は別に」
「というか、葵ちゃんの方がかわいい」
ゴンッ、と音がしたのは、どさくさにまぎれた浩之の言葉に、綾香のいつも通りの嫉妬の鉄拳が決まったからだ。
「っ……」
頭を押さえたまま苦しがる浩之を横目に、綾香は手をひらひらさせた。
「このバカはいいとして、見た目は別に、普通の格闘家だし、そんなに注目するほどのことでもないんじゃないの?」
「そんな、見た目って……」
吉祥寺春選手は、背は坂下と同じほどあるが、細い。基本的に、階級のある格闘技では、体重が軽い相手と戦う方が楽であるので、無差別級以外は身体をしぼる。
ある程度身体をしぼるのには意味がある。重いと、スピードは落ちるし、三分三ラウンドなど、絶対にスタミナが持たない。
なので、余計な脂肪は落とすに限るのだが、それだけと言えないのが、格闘技の面白いところだ。
脂肪が減れば、体重が軽くなる。そうなれば、同じ筋肉であれば、体重が軽い方が速いし、消費も減るのでスタミナもつく。
しかし、脂肪を、つまり体重を落としすぎると、今度は相手に力負けしてしまうし、何より打撃の威力を身体で殺せなくなってしまう。
一般的に、脂肪はけずった方が有利なのだが、削りすぎれば、それは当然問題となる。通常の体力が減りすぎて、すぐ疲れる身体になってしまうという問題もある。
そして、格闘技のための減量となると、また話がおかしくなってくる。
体重別の格闘技は、すでにもう脂肪は削れるだけ削っている。すると、何を次は削るかと言うと、水分だ。
さらに、それでもまだ体重を削らないといけない場合は、筋肉を削っていくことになる。
これは、さすがに意味がない。無駄な筋肉はいらないが、もうすでに必要なだけの筋肉であろうにも関わらず、そこから血肉を削って減量をするのだ。
基本的には、体重測定から、少し時間があるのが普通であり、その間にわずかに栄養や水分を補給できるとは言え、あまり意味のない行為だ。
吉祥寺春選手は、見たところ、その減量を今までしてきたタイプのようだった。エクストリームには体重別などないので、今はナチュラルな体型なのかも知れないが、脂肪が少ないのは、見て取れる。
スピードと打撃の威力にかまけて、相手を翻弄して戦うタイプ、綾香には、対戦しなくとも試合を観なくとも、吉祥寺選手のパターンが読めた。
もっとも、脂肪がないのは葵も一緒なんだけどね。私は、ほら、胸があるから……
葵が聞いたら恥ずかしさのために走って逃げてしまいそうなことを考えながら、綾香はあまり興味もない吉祥寺選手の方を見ていた。
「身体はしぼられていますし、筋肉もかなり多いように見えます。打撃の威力は、私とは比べ物にならないぐらい強いんじゃないでしょうか?」
「まあ、見た目そうね。私よりも細いけど」
アドバスをしない綾香のかわりに、坂下が答える。もっとも、ヒントぐらいは、日常会話でしてしまいそうな辺りが、何とも綾香らしいのだが。
「身長があるのって、やっぱりうらやましいです。リーチが違いますから、どうしても打撃では有利ですし……」
葵の身長は、話題にする間でもなく低い。こればかりは、どんなに努力して牛乳を飲んだところで、どうこうなるものではない。
葵がいくらか抱える先天的不利の、一番大きなものだ。それを覆せるだけの才能は、葵自身ないと思っているし、それどころか、むしろ才能で言えば、不利な部分ばかりとさえ思う。
そう信じながらも、そして、どんなに努力しても覆せないものがあると思いながらも、葵はまだ、心のどこかで信じているのだ。
努力によって、覆せないものはある。けれども、それで諦めて、覆せるものなんて、才能によってさえない、と。
「試合経験も、けっこうあると思いますし、それを考えると、恐い相手だと思います」
「ふ〜ん、じゃあ、葵?」
「はい、何ですか?」
坂下は、意地悪い顔をして葵に訊ねた。
「じゃあさ、葵は、自分が負けると思ってるの?」
葵に対しては、意地悪な質問だったろう。しかし、こうやって、他人の強さを冷静に評価しているときが、実は葵の心の中は、一番危ないのだ。
綾香も、坂下も、心の中で葵が何を思っているのかまではわからない。しかし、目が、はっきりと教えていた。
でも、私はあきらめません。努力で、その穴は埋まると信じています。
自分が勝てるという妄信、それが才能によるものなのか、努力によるものなのか、そんなことは関係なく、葵にはそれがある。
葵とて一枚板でそれを信じれるわけではない。不安の方が大きいぐらいだ。
ド〜ンッ!
試合の合図の太鼓が、鳴りだした。
しかし、どんなに不安だろうと、相手が強かろうと、自分の勝ちを信じれないとき、勝ちはまた生まれない。
センパイが私に教えてくれた、色々なもの、その中でも、一番大きなもの。
ド〜ンッ!
好きだ嫌いだ、ではない。人生のセンパイとして、葵は浩之が教えてくれたことを、心から信じることができた。それがあれば、自分はまたあがったり、苦しんだりしたときも、前に進めると、信じることができる。
ド〜ンッ!
センパイが教えてくれた、自分が、強いということを。
葵は、坂下の意地悪な質問に、その言葉を口にする恐さとかを、全て捨てさって、自信にあふれた声で答えを返した。
「私は、勝ちますっ!」
葵の決心の言葉と共に、試合の合図が入った。
「レディー、ファイトッ!」
続く