相手選手の腕が、がっちりと吉祥寺選手の腰にまわされていた。それだけでなく、相手選手は、吉祥寺選手の打撃を警戒して、身体をぴったりとくっつけた。
これだけ近づけば、打撃の威力も殺されるし、何より、組み技は有利になりこそすれ、不利にはならない。
何の工夫もなく、受けた?
吉祥寺選手に、完全にタックルは決まっていた。いや、もしかすれば、何かをしようとしていたのかも知れないが、相手選手のタックルは、鋭く、そして速かった。
葵でさえ、その距離を読み違えていた。来るとわかっているのだから、それでも何とか対処はできたろうが、反対に、少し読み違えていれば、同じ結果になっていただろう。
もっとも、その前に、葵ならばこんな状況にはなっていないはずだ。フットワークと得意の打撃を使って、相手を翻弄しているはずだ。
しかし、吉祥寺選手はこちらを選んだ。その方が有利と見たわけなのだが……
タックルが決まって、一度沸いた会場だが、その後歓声はおさまったものの、ザワザワという声が消えなかった。
……相手選手のタックルは、完璧に決まっていた。
の、はずなのに、吉祥寺選手が倒れないのだ。
腰をがっちりと落として、吉祥寺選手は止まっていた。相手選手は、下で何とか動かそうとしているようだが、吉祥寺選手の身体は、さっぱり動かない。
相手選手の方が身体は大きい。吉祥寺選手は、むしろ痩せている方だった。しかし、その体重差を持ってしても、吉祥寺選手の身体を、タックルの状態から動かせないのだ。
これは……
「こうも完璧に上から封じられたんじゃあ、手が出せないわよねえ」
綾香が、それを見ながら嬉しそうに言う。吉祥寺選手が強いとわかって、うれしかったのだろう。
「おいおい、キックボクシングの選手なんだろ?」
その防御方法は、タックルを封じる方法を、熟知しているとしか思えなかった。
タックルで、腰を完全に持てたとしても、それで絶対に倒せると決まったわけではないのだ。吉祥寺のように、脚を横に開き、腰を落として、相手を上から押しつぶすようにすれば、そう簡単に倒せるものではない。
特に、吉祥寺選手には体重はないものの、身長があった。それは、普通に立っていればタックルをされたときに不利であるが、腰を落として、あのように完全に守りに入った状態では、その身長はつっかえとなり、ひっくり返すのは難しくなる。そうでなくとも、広がったものというのは動かし難いのだ。
と言うことは、吉祥寺選手は、相手のタックルを止める自信があったから、フットワークを止めた?
それも何か納得のいかない結果だった。なるほど、タックルを止めることができるのはよくわかった。しかし、これからどうやって勝つつもりなのだろうか?
所詮、近付いての打撃など、対して威力があるわけでもない。相手を上からつぶしても、そのまま手をマットにつかれれば、それで終わりだ。
まさか、キックボクサーと言いながら、ここから組み技を持ってくるわけでもないだろうに。
一朝一夕で、人間は強くなれるものではない。
中には、浩之のように、昨日の今日で強くなれる人間はいる。しかし、それは程度の問題であり、属性の問題ではない。
浩之は、打撃も組み技も使える。しかし、葵は打撃に特化している。柔道を習ってはいるが、やはりまだまだ試合で有効に使えるほどの腕前ではない。
それは、格闘属性が違うからだ。昔からやってきた打撃と、つい最近始めた組み技では、差が出るのは当然。
吉祥寺選手だって、それは同じはず。守りはかなり上達しているかも知れないが、どこまで攻撃にそれを使えるかとなると……
三十秒ほど、相手選手は下でもがいていたが、この体勢から相手を倒すのが無理とわかったのか、動きを止めた。
そして、さっきから、ガードの体勢にはなっているものの、吉祥寺選手も打撃を使おうとしていなかった。
威力は落ちるだろうが、それでも、相手を少しでも消費させるために、ここは細かくでも打撃を使うべきではなかったのだろうか。
自分ならば、ほとんどフリーの両腕を使って、脇を狙うだろう。いつもの威力は出せなくとも、ボディーに対する打撃は、スタミナを削る。
それでガードの体勢が悪くなる可能性もあり、それが一概に良いとは言い切れない部分もあったが、葵としては間違っていない判断だと思っていた。
このまま相手に逃げられても、何も得るものがない。それでは、わざわざ相手のタックルを待った意味がないではないか。
相手は、手さえつけばいいのだ。それで倒れた状態となり、吉祥寺は打撃を使う機会を無くす。まったく被害を被らずに、この体勢から逃げる方法があるのだ。
そう思った瞬間に、相手選手は吉祥寺の腰から手を放していた。
手を……つけないっ!
相手選手がマットに手をつこうとしたのを読んでいたように、吉祥時選手は相手の腕を外から胴体ごとつかんだ。
丁度、相手に上からのしかかるような体勢で、相手の腰と胸の中間辺りに腕をまわしていた。
完璧な体勢だった。これが、次に投げ技に持っていくのならば。
相手の腕を封じたところまでは、葵でもできないではなかった。相手がどうやって今の状態を外すのか、すぐに予想はつく。後は、相手が腕を腰から放すのを待てばいいだけだ。両腕がフリーならば、それぐらいはできる。
しかし、こんな体勢では、それこそ打撃は……
と、吉祥時選手は、相手の身体をつかんだまま、大きく脚を振り上げていた。相手選手には、その脚は見えなかったし、何より、今の体勢は吉祥寺選手を倒すことなどできない。
でも、この体勢で打撃なんて……
吉祥寺選手は、迷うことなく、脚を振り下ろしていた。
ドガッ!
鈍く思い音が響いた。そのあまりの破壊の音に、一瞬場内がシンと静まる。
その一撃で、相手選手の膝がガクッと下がるが、吉祥寺は胴をつかんでそれを阻止した。そして、もう一度、大きく脚を振り上げた。
ドガッ!
二発目に満足したのか、吉祥寺選手は、相手選手の胴にまわしていた腕を放した。
支えを失くした相手選手の身体が、今度こそマットの上に落ちた。
追撃するまでもなく、倒れてピクリとも動かない相手選手を眼下ににらみつけ、吉祥寺選手は構えをといた。その姿に、あわてて審判が相手選手に駆け寄る。
審判は、相手選手の様子を確認すると、腕をあげた。
「それまで!」
続く