葵の心臓は、緊張ではちきれそうだった。
と、いうほどのこともなかった。
もう少しで、今まで目指してきたものの成果を出さなければいけないのだ。普通に考えたって、緊張するのは当然だ。
しかも、葵は公式戦は初めてだ。空手の試合なら、今まで何度か出てきたが、そのことごとくを緊張で敗退してきた葵に、経験はほとんどない。
しかし、いつもの試合前の気持ちでないことは、当の本人の葵が一番よくわかっていた。
もう、過度に身体を温める必要もない。じっくりと暖めてきたし、柔軟も取り入れたおかげか、かなり体調も良い。
綾香の、無茶な応援の仕方がよかったのだろうか?
大勢の前で戦線布告をさせられる。まず間違いなく、普通でなくとも緊張して、声も出ない場面で、葵は声を出せた。しかも、自信満々でだ。
あれに比べれば、というのも何だが、少なくとも緊張は今も葵を襲おうとしない。
「落ち着いてるな、葵ちゃん」
「はい、試合前にこんなのだと、反対に不安になるぐらいです」
葵は、自分のあがり症に自覚があったし、そう簡単に治るものでもないと思っていた。今まで何度克服しようとしても、その都度失敗してきたのだ。
しかし、葵は自分の力だけでそれを克服しようとしてきた。それが、大きな間違いだったのかも知れない。
センパイがいるだけで、心が落ち着く。
今まで、一人の人間のことをこんなに思ったことはなかった。それは、綾香には強い憧れはあったが、それだって、浩之に対するものの前では、かすんでしまう。
浩之が、見たところ綾香の半恋人状態であることをわかってもだ。
それを横から取ろう、とは思わないし、そんなものが成功するとも思っていない。
だけれでも、少しでも近くで見ていて欲しかった。
普通、好きな人がいれば緊張するものなのに、自分はどうも真反対のようだ。
「綾香が葵ちゃんを連れて行ったときは、どうしようかと思ったがな。あれがいい方向に進んだか?」
試合の前だというので、近くにいればアドバイスをしてしまうと、綾香は少し離れた場所で葵と浩之を見ている。
まあ、ここで綾香の悪口を言えば、必ずその地獄耳はそれを聞きつけるので、めったなことは浩之も言えないのだが、それにしたって、綾香の最初の行動は無茶過ぎた。
「それもあると思います。でも、きっと……」
葵は、一瞬、酷く緊張した。自分が、いらないことまで言おうとしているのではないか、と勘ぐってしまったのだ。
でも、センパイに対してそう言うのは、少なくとも間違っていない。
そう自分の心に嘘をついた。いや、嘘でもないのだが、言うなれば過剰であったということだ。
「きっと?」
浩之に尋ねられ、少しほほが赤くなるのを自覚しながら、葵はそれでも心から、お礼の言葉を言った。
「センパイが近くにいてくれるおかげです。ありがとうございます、センパイ!」
そう言うだけで、自然と笑みがこぼれた。
嘘は言っていない。それに、心からそう思っているのだ。浩之の、試合を含めたはげましや、その存在自体などが、葵に力を分けてくれるのだ。
「いや、俺は何もしてないって。葵ちゃんの地力だよ」
返事も、そんな感じだろうと、少し予測していたので、葵は心の中で小さく吹き出してしまった。
この人は、決して自分のやっていることを特別なことだとは思わない。だからこそ、多くの人は、この人に助けられるのだ。
天然で光るものが、浩之の中にはあるのだ。それを自覚できていないのは、おそらく当の本人だけだろうが。
だから、浩之の言葉を否定するときも、どうせわかってはくれないだろうと思った。もちろん、それが悪いことだとは少しも思わない。
「そんなことないですよ。センパイがいるからこそ、私はここに立ててる。いつも、そう思っています」
「まいったなあ、葵ちゃんに感謝されるようなことはしてないんだがなあ。むしろ、邪魔しているようで心が痛いよ」
いや、むしろ、これこそがセンパイらしい。
「そんなことないですよ。少なくとも、センパイの試合を見て、もう血がたぎってますから!」
まったく色っぽくない方向に話を進めてしまったのは、それはやはり葵らしい行動だったろう。まあ、この二人では、なかなか色っぽい方向、というのは進みにくい。
それに、浩之の後ろには、凶悪な嫉妬の女神がついているのだし。
「んー、俺としては、二度としたくないけどな、あんな試合。痛いし」
それが、今の浩之のけっこうな本音であったりもする。まあ、痛いのなら、この後もきっとそうだろうが。
むしろ、問題は痛いのが試合ではなく、そこの怪物からの一方的な攻撃というのは、かなり問題があるような気が、浩之にはしているのだが、それをわかってくれる程度なら、怪物も最初から手は出さないであろう。
「どっちにしろ、緊張がないってのはいいことだ」
「自分でわからないほど、緊張しているのかもしれませんけどね」
しかし、それならば浩之には伝わってくるだろうから、今のところは問題なさそうだった。ここまでくれば、試合が始まっても、適度の緊張を超えることはないだろう。
緊張のない葵を相手にする選手は、たまったものではないだろうが……
宣戦布告をされたはいいが、葵のデータなど、どこにもないだろうから、相手は作戦のねりようもない。見た目は小さいし、そんなに恐れる相手ではないのなら、わざわざエクストリームチャンプの綾香が紹介するわけもないし。
実際の強さも桁違いなのだが、それに付け加えて、正体のわからない不気味さ、というのは、異種格闘技に限らず、どんな格闘技でも怖い。
しかも、葵は油断という言葉には酷く縁がない。
強い相手が油断する、という状況も、葵には絶対にあてはまらないのだ。相手のことが、むしろかわいそうになってくるような状況だ。
だが、残念ながら、浩之は全面的に葵の味方なので、相手が困るぶんには全然かまわなかったりもする。
「でも、こんなに調子がいいこともないです。今日このときに、こんなコンディションになれるなんて、思いもしませんでした」
浩之は、大きく息を吸った。これから、かわいい後輩を送り出すのだ。生半可な勢いでは駄目だ。
「よーし、調子がいいのはいいことだ。じゃあ、葵ちゃんの強さ、おもいっきり、見せてこいっ!」
「はいっ!」
葵は、元気に返事をした。
続く