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最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(65)

 

 葵の目の前には、エクストリームでの初めての対戦相手がいた。

 今まで、空手の試合では一つもいい結果を残せたことはなかった。むしろ、負けてばかりと言ってよかった。

 しかし、それでさえ、葵の格闘に対する気持ちは衰えなかった。

 綾香や坂下のような、道場でも、そして綾香にいたっては日本でも最強と言える先輩に、練習では形でも戦える、それが、長い下積み時代を支えていた。

 でも、それだけじゃない。

 相手の選手は、やはりつかみにくい服装をしている。露出度は葵よりも高いが、それは単にお腹を出しているからだ。

 足運びから言って、打撃系、しかも、フットワークを使う。ボクシングではない。蹴りも考えている格闘技。

 キックボクサーか、ムエタイか。近代空手であるかもしれない。

 何でもない、相手を分析しただけだ。相手は身体が冷えるのを避けるためだろう、試合場に立っても、軽い準備運動を続けている。

 しかし、今の葵には、それは心が落ち着かないのを、身体を動かして落ち着かせようとしているようにしか見えなかった。

 視界の端に、少し離れていた綾香が、浩之の横に立つのが見えた。その横には、坂下もいる。

「葵ちゃん、落ちついてな〜」

 浩之の声も、ちゃんと届いているのが、自分でもわかる。綾香が横から浩之を殴っているが、じゃれあっている程度なので、浩之は殴られるにまかせている。

 でも、綾香さんがじゃれる程度で殴っても、素人には危ないと思うんですが。

 すでに浩之は素人でもないし、もとより、身体の丈夫さは驚くほどなので、気にするほどのことはないが、すごくお似合いの二人で、少しだけ葵は自虐の意味も込めて、苦笑した。

 そんなことを思っている間も、相手の選手は動きを止めない。

 相手は落ち着いていない。最初のフェイントは、効果が高そうだ。しかし、相手は怖がっているだろうから、追撃させるようなフェイントは意味がない。逃げる相手へのフェイント、飛び込みを一度見せて、一瞬置いての飛び込み。

 怖がっている相手は、すぐにカウンターを合わせることはできないだろう。もし、これで決めれなくとも、主導権は握れるし、反撃の恐れもほとんどない。

 よしんば、反撃されても、緊張して動きの遅い相手になら、十分対処できる。

 誰かに教えてもらったように、作戦というより、戦い方が頭の中に流れ込んできた。いつもなら、試合が始まるまで、自分の頭の中は真っ白なのに。

 私も、成長できているのだろうか?

 そして、そう考えた次の瞬間には、ぞっとしていた。

 今まで、試合をこんな気持ちで臨んだことはなかった。いつも、緊張でガクガクになって臨んできていたし、坂下を倒したときでさえ、頭の中は真っ白だったのだ。

 でも、今は相手を見ただけで、相手の格闘技の種類、精神状況、試合の展開まで予想している。

 相手を見る目が養われている、のは確かにそうだ。浩之が組み技の戦い方をしてくれるのも、そして柔道や、形意拳の道場に通ったのも、無駄ではなかったのだろう。

 しかし、今の状況は、目が養われているとか、そういうレベルの話ではなかった。どんなに実力があっても、それをうまく使える、平常心というのは大切だが、今は、それを越えている。

 落ち着きすぎていて怖い、と葵は自分で言っていたが、今の状況は、それを通り過ぎて、冷静すぎる。

 浩之の声だけならまだしも、横の綾香がじゃれる姿や、坂下の姿まで、平然と確認できている。待望のエクストリームの、初戦だというのにだ。

 落ち着いているだけならば、まだいい。だが、落ち着きすぎている。それどころか、今まで見えてこなかったものさえ、見えてきているように感じる。

 自分が、まるで別人のようだった。

 それでいて、闘志だけが、心の中で燃え上がっている。浩之の試合を思い出すだけで、その中のものがあふれそうだ。

 審判が真ん中に立つまでの時間が、酷く長く感じた。まるでそこだけ時間がたつのが遅いようだった。

 ドクンッ!

 今まで聞こえなかった、胸の鼓動が、ここになってやっと聞こえ出した。

 それで、いつもと同じ状況となって、むしろ落ち着いた気持ちになったが、それはそれで何か問題があるような気がする。

 でも、このまま緊張してしまえば、また自分は動けない。

 ドクンッ!

 大きく波打つ音、それはまるで大波のように、葵の心を揺さぶる。しかし、葵はそれに不快感を覚えなかった。

 息は、ほんの少し、まるで今から始まる試合に合わせるように自然に早くなったし、鼓動は大きいが、むしろそれは心地よかった。

 真ん中に立った審判が、なかなか合図をしない。その、実際は長くもないだろう間に、葵は、もう待ちきれなくなっている自分に気付いた。

 これは、緊張じゃない。

 胸の大きな鼓動は、大きくなりこそすれ、収まることを知らないが、それは、緊張からではなかった。

 葵の中の闘志が、そのエンジンの力。

 そして、この鼓動は、今から始まる試合に、待ちきれなくなっている証拠。

 それは、初めての体験。

 空手は、葵に色々な、未体験だったことを体験させてくれたが、今回もまた、それは葵にとっては未体験のことだった。

 期待、だ。

 これから始まる試合、これから行う戦い、相手、強敵、そして、最終的に目指す、『最強の王女』、綾香に。

 自分で目指そうとした場所だったけれど。

「それでは、両者位置について」

 やっと、もうそれこそ待ちに待たされて、審判の声がかかる。その声さえ遅い、と葵は感じた。

 こんなに、これほど、これを自分が望んできたなんて、今まで思っていなかった。

 今まで経験したことのない相手と戦う恐怖、単純に試合の緊張、目指しているものに、まだ届かないのでは、と思う冷静な判断。

 後、センパイに対する思い。

 葵は、最後にあげた以外の不安を、今だけ、横に放り投げた。

 最後のものだけは、不安と共に、色々自分に与えてくれることをよくわかっていたので、残したけれど。

 それ以外の不安は、もう今の葵には、ない。

「レディー……」

 単純に、今のときを、楽しみたい。この戦いを、身体全体で。

 格闘バカとして、一番基本であり、一番重要であるものに、葵はたどり着き。

 ゆっくりと、構えを取った。

「ファイトッ!」

 

続く

 

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