作品選択に戻る

最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(66)

 

「ファイトッ!」

 合図がかかるかかからないか、それぐらいになって、やっと葵は構えを取った。

 オーソドックスな左半身の構えだ。拳が下げ気味なのは、まだ相手との距離が遠いからであろう。

 攻撃一辺倒でもなければ、防御一辺倒でもない。

 むしろ、構えを取るのが遅すぎるような気が浩之にはした。相手がいきなりつっかかってくるかもしれないのだ。構えは取っておいた方がいい。

「あら〜、ほんとに落ち着いてるわねえ」

「何だ、その残念、っていう声は」

 葵が実力で試合に望めるのを、浩之よりも、もしかすれば当の葵よりも願っていただろう綾香は、実際残念という声を出した。

「だって、これで余裕で勝っちゃうのが決まったじゃない。少しはもめてくれないと、面白くないしね」

 別に綾香を面白がらすために葵ちゃんも試合をやってるわけじゃねえと思うんだが。

 浩之の考えたことは、おそらくどころか、間違いなく間違っていない。

「これじゃあ、開始一分ってとろこかな?」

「……てか綾香、てめえ、まわりの人間挑発してるだろ」

 浩之の小さなつっこみの声を聞こえなかったわけは絶対にない綾香は、聞こえないふりをしていた。

 しかし、綾香の挑発を聞いて、あからさまに顔をしかめている他の選手も目につく。綾香ときたら、葵にも聞こえんばかりに大きな声を出すのだから、当然なのだが。

「何、綾香。葵に今更プレッシャー?」

 まわりに対する配慮は関係ないのか、坂下が少しバカにしたように言う。

「まさか。プレッシャーなら、自己紹介ぐらいで十分でしょ」

 自己紹介というか、宣戦布告と言うか……

 確かに、あれほどのプレッシャーの与え方もないだろう。もっと、葵はそれを思うよりも簡単に乗り越えてしまったようだが。さて、どんな手を使ったのか……

 まさか自分に向けて言ったから、とは思っていない浩之は、疑問に思いながらも、葵の試合をじっと観ていた。

 相手は、同じ打撃系のようだ。構えから見るに、近代空手のように見える。スタイル的には、綾香や葵に近い。

 しかし、腰がひけてるな。

 試合がはじまって二十秒ほどだが、どちらもまだ手を出していない。葵が前に出れば、それにあわせて相手は後ろに下がっている。葵が飛び込まないので、今のところ接触は一度もない。

 しかし、あれって、十分葵ちゃんの一刀足圏内だと思うんだが。

 普通なら、まだギリギリ届かない距離かも知れないが、葵ならば十分つめた後に打撃を放てる距離だ。ハイキックの間合いは広いし、飛び込みも速いのだ。不可能な話ではない。

 葵は、無理に距離を縮めようとせずに、相手を誘っているようにも見える。腰が引けている、と言っているのは、相手に対してだ。

 手を出さなければ、勝てないのだ。カウンターを狙うとしても、相手のタイミングを読まなくては、普通成功しない。そのためには、こっちから手を出して、相手に手を出させないといけない。

 怖いのはわかる、だが、その一歩が重要なのだ。

 だが、それを考えると、浩之にはどうしても腑に落ちないことがあった。

「……葵ちゃん、何やってるんだ?」

 表情には、むしろ余裕があるぐらいだし、相手を急には攻めたりしないが、前にも出ている。今更、葵が攻撃を開始しない理由がない。

「今は攻める場面だろ、出足が鈍る理由が思いつかないんだが」

「……さあ、待ってるんじゃないの?」

 綾香は、少しだけ楽しそうに答えた。葵のやっていることを、やはりそれなりに理解しているのはさすがだが、楽しそう、ということは、ろくでもないことなのは、浩之の予想の範疇ではある。

「何を?」

「相手が、試合に慣れるのを」

 綾香の言葉と同時に、葵が一歩前に出て、肩がぶれたような気がした。

 パパンッ!

 相手を一瞬でパンチの届く距離に飛び込んでの、ワンツーが、相手のガードの上を叩いた。

 基本に忠実な、素早いワンツーだ。他の選手や観客からも、「オオっ!」という歓声の声があがる。それだけ、葵の基本技が冴えているということなのだが。

「何だ、ありゃ?」

 浩之は、正直、葵の行動が理解できないどころか、むしろ否定的な気分になっていた。もちろん気分で言っているのではない。勝つために言っているのだ。

「距離もあるんだろうが、葵ちゃん、倒す気あるのか?」

 素早いワンツーではあった。けん制にはなかなかのものではあると思うが、それだけだ。

 葵は、間違いなく判定勝ちを狙うタイプではない。浩之も、葵がポイントを取るための練習をしていたのを見たことなどない。

 葵の技は、どれも相手をKOせしめるために練習されているのだ。

 あのワンツーは、葵の技を見慣れている浩之にとっては、気のない攻撃にしか見えなかった。その打撃では、相手を倒すことは不可能。反対に、相手を試合に慣れさせるだけだ。むしろ、まだ硬い相手をなるべく早くKOする方が重要のはずだった。

 なるべく、早く?

「綾香、相手が試合に慣れるまで待つってのは、何か意味があるのか?」

「私に聞かないでよ、やってるのは葵なんだから」

 しかし、綾香には理由が分かっている。浩之も、ここまで来れば、葵が何をしようとしているのかは、わかる。

 しかし、こんな試合で、それはあまりにも危険じゃないのか?

 葵の弱点は、試合の経験不足だ。それは試合に出る以外では満たされるものではなく、しかも、ある意味失敗して覚えるしかないものだ。

 それを克服するため、と言われれば、浩之も無理に納得しようとしたかも知れない。だが、葵はそれさえ言わなかったし、顔にも違うことが書いてある。

「葵ちゃん、すぐ倒せっ!」

 セコンドとしては、あまり意味のない上に、しかもまわりからは睨まれるようなことを、しかし浩之は必死になって言っていた。

 それを聞いた葵は、ちらり、と浩之の方を見て、笑った。

 それは、相手もある程度試合に慣れて、ころあいだとでも思ったからなのだろうか。

 葵の前に構える左拳が、上にあがった。

 さっきまでの、流すような気持ちではなく、葵の拳に、気合いが入る。

 相手も、今度はそれに応じようとしているのか、すっと腰を落とした。

 葵は、今試合を、全力で楽しもうとしている。それは、わからないでもなかったが、浩之を不安にさせるには十分な理由だった。

 もっとも、葵の拳には、一片の不安しかないのだが。

 

続く

 

前のページに戻る

次のページに進む