「……センパイ?」
まるで一試合フルに戦った後のように疲弊した浩之が、身体をひきずって葵達に近づいてきた。よく見ると、少し内股だったかもしれない。
「どうしたんですか、センパイ?」
浩之のタフさ加減は、葵もよく心得ている。その浩之が、ここまで疲弊するのだ、ただ事ではない。
しかし、葵の心配そうな声を無視して、いや、本人に反応するだけの力がなかったからなのだが、浩之は綾香の腕をつかんでズリズリと引きずっていく。
「ちょっと浩之とちちくりあってくるね〜」
全然抵抗せずに、誤解どころか血を呼びそうなことを綾香が言っているが、それにつっこむだけの力はなかった。
驚いた表情のままの葵を置いて、浩之はとりあえず人気のない、と言っても、試合場よりは少ないというだけだが、ところに綾香を連れて行く。
「何、浩之? こんな人の目のある場所で逢引?」
その言葉に、まわりの人間はぎょっとしているが、綾香の意地の悪い言葉にも、浩之は反応せずに、そのかわり、地の底から這い出すような声を出した。
「……てめえ、使えなくなったらどう責任取ってくれるんだ」
本当は、大きな声で怒鳴ってやりたかったところなのだが、いかんせん、腹に力が入らないし、人の目もある。
「何、使うつもり?」
「……あのなあ」
あまりにもストレートに返されたので、浩之が赤面していると、クスクスと綾香が笑い出した。
「ごめんごめん、悪気はなかったのよ。ただ、ちょっと、がら空きだったから」
「頼むから、がら空きでも、あそこはやめてくれ」
浩之は懇願した。それもそうだ、男の急所を、いかに手加減したとは言え、綾香の前蹴り直撃だ。懇願したくもなるだろう。
あやまられて、済む問題ではない。浩之だって、仕返しをしたくなるのは当然のこと。特に最近、綾香の攻撃はきびしいのだ。
「あやうく、子孫が作れなくなるところだったぜ」
綾香を何故か見つめながら言う浩之に、さすがに綾香の顔が赤くなる。
「子孫って……」
「ん、そりゃ……」
綾香が、べしっと浩之の頭を叩いた。驚くことに、その力はかなり弱かった。それが普通のことのはずなのだが、浩之はちょっとぐっとくるものがあった。
「説明しなくていいから、悪かったわよ。でも、ちょっと蹴っただけじゃない」
「お前のちょっとは全然ちょっとじゃねえんだよ。それに、あそこはちょっとでもめちゃくちゃ痛えんだよ」
女にはわからない痛みだ。どんな大男だろうと、ここを一撃されたら、ダメージは計り知れない。浩之とて同じだ。
エクストリームは、金的が反則でよかった、と心から思った。
「悪いわね、さすがに急所狙いなんて、やったことなかったから」
「……いや、その言葉を聞いて、むしろ安心した」
「そう?」
「ああ」
少なくとも、綾香の被害にあったのは自分一人だけだったようだ。どんなに悪人でも、ここをやられるのは、男としてしのびない気持ちにもなるというものだ。
「でも、とりあえずいやらしい打撃でしょ?」
「……ああ、身を持って知ったよ」
浩之としては、持ち過ぎのようにも思うのだが。
「他にも、こんな打撃を色々使ってくると思うわけよ。浩之、葵のこと心配?」
「ま、そりゃな。しかし、心配って言えば、次の葵ちゃんの試合も心配だけどな」
体重差を聞くのが恐くなるほどの体格差のある相手だ。技術云々は今更葵のことを心配しても仕方ないが、浩之には、むしろ体力差の方が恐と思えた。
「パワーにものを言わせる相手なんて、今までいなかっただろうしな」
「そりゃそうだろうけど、パワーなら、私だって負ける気はしないわよ」
「体格のあれだけ違う相手は、やったことないだろう?」
「それはそうかもね」
綾香の力が強いのはわかっている。規格外な綾香は置いておくとして、体格という意味では、葵はそんなに大きな相手とはやってこなかった。
坂下も女子としては体格のいい方ではあるが、格闘技をやっている女子には、もっと大きな者はかなりの数いるのだ。
体格が違えば、リーチも違うし、単純に体重というものは格闘技に大きくかかわってくる。
体格=パワーでは、関連はあってもイコールではないのは確かだが、体格がパワーだけに関係しているわけではないのだ。
しかも、その大きな、しかも引き締めるだけ引き締まった身体を持つ枕将子の動きは、驚くほど速い。しかも、速く動いても、力を損なわないのだ。
「いいじゃない、少しは骨のある相手と戦わないと、葵だってさびしいだろうし」
「そんなもんか?」
「だって、本戦に行けば、まだまだ相手は強くなるのよ。ここで、強い相手と戦っておくのが、後々のためになるんじゃない?」
浩之も、今日の成長は目を見張るものがあった。むしろ、常識を超えて、今日浩之は強くなった。
葵にそれが起こるかどうかはわからないが、浩之と同じ経験をすれば、もしかすれば、葵も同じように、驚異的な成長をするかも知れない。
それには、浩之のように実力的に上の相手と戦って。
浩之のようにボロボロになる必要がある、のかも知れない。
……あんまり効率的じゃないよなあ、実際。
楽して勝てるのなら、それに越したことがないと思う浩之は、間違っているのだろうか?
少なくとも、寺町のような格闘バカと何度も戦わないといけないというのは、あまりにも嫌な話だ。
「……て、さびしい?」
「さびしいわよ。強い相手と戦う、格闘家にとって、これほど楽しいことはないじゃない」
「……」
あながち、外れた言葉でもないのだろうが、これが日ごろの人徳というやつか、綾香が言うとかなり危険なことを言っているように聞こえる。
「少なくとも、葵はそうよ。今なんて、きっとうきうきして試合が始まるのを待ってるに間違いないわよ」
「そりゃ、緊張するよりはましだけどさ……」
あがり癖が直ったのはいいだが、綾香の悪いところが写ったのでは、格闘に関してはともかく、日常生活と浩之の生活は、かなり危険なものになる気がした。
「……また、変なこと考えてるでしょ。今度こそ、使えなくするわよ」
「いや、まじで勘弁してくれ」
浩之は、恥も外聞もなく、子孫繁栄のために、即効で頭を下げた。
浩之に対する調教は、うまくいっているようである。
続く