後十分もしないうちに葵の二試合目が始まろうというときに、葵はソワソワと、落ち着きなく辺りを見回していた。
決して、いい傾向ではない、と坂下は思った。
試合を待ち望んでいるのなら、それはいい。入れ込みすぎも問題ではあるが、楽しみにしているのなら、そんな心配もないだろう。
しかし、今の葵は、どちらかと言うと顔に不安がにじみ出ている。
……っとに、世話のやけるやつらねえ。
「やつら」、坂下がそう考えたのは、いいがかりではない。葵一人なら、そう世話など必要なかったろう。
いや、昔の葵なら、自分がいくら世話をしてやったところで、そのあがり症を直せていないのだから、結局、今葵を不安にさせる男があってこそ、今の葵があるのだ。
「……藤田が来ないのが不安、葵?」
「え?! あ、いえ、じゃなくて、はい、やっぱり試合見て欲しいですから」
嘘ではないが、全部を口にしているわけではない。恋愛事にうとい坂下とて、待ち合わせに遅れている彼氏を待つような葵の表情が、何を物語っているのかぐらいはわかる。
不安とかそうではなく、葵は自分のわがままで、試合前に藤田に声をかけてもらいたいのだ。
今の葵には、藤田の声がなくとも、そう問題があるとも思えないけど、それがわがままで言っているのだから……やはり、世話のやけるやつらよねえ。
当の浩之も、なかなか姿を現さない。
綾香とちちくりあっているのはわかるけど、少なくとも葵には声をかけるぐらいは軟派なやつだと信じていたんだけどねえ。
もちろん、そんな見方をされても浩之自身はいっこうにうれしくないし、むしろ綾香や坂下からどつかれるのは目に見えているのだから、自分の身の安全を考えると、今ここに来ない方が正しいのかもしれない。
自分の身を守るために、女の子に声をかけない。
などという、冷静な判断ができる男じゃないから……
物凄い浩之には困る信頼関係だが、坂下は浩之がそういう人物だと思っているし、あながち外れてもいない。
きっと、綾香にまたKOされてるんだろうけど。
化け物並の打たれ強さを誇るとは言え、綾香に殴られて、または蹴られて、一瞬で復活できるほどではないだろう。
……まさか、綾香が嫉妬して来させないようにしているとも思えないけど……
綾香は、いい意味でも、悪い意味でも、あまり執着しない女だ。それは、自身の才能があまりにも高い故の問題点なのかもしれない。努力をせずとも、その才能で何でもこなすことができるのだ、本気になれ、努力しろ、という方が間違っているのだろう。
反対に、その才能の塊が、一方に執着すれば……結果は、おのずと見えてくる。
世の中、どうにもならないことはあるが、綾香の才能で、そして綾香が執着して何かを行えば、できないことはそう多くはなかろう。
それが、恋愛にも通用するのかどうかは、正直、坂下にもわからないのだが。
と、そんな坂下の杞憂を他所に、何故か、というほど疑問もわかないが、ボロボロになった浩之が、疲れきった顔に笑顔を浮かべて現れた。
「センパイッ!!」
葵は、とっさに大きな声をあげていた。何事かとまわりの人間が葵を見るが、葵は気にした風もなかった。おそらく、浩之以外は目に入っていないのだろう。
「ごめんごめん、葵ちゃん」
後ろで、すまし顔の綾香が口笛を吹いてなどいるが、これはまあいつも通りの風景だ。さっき浩之の身にどんな恐ろしいことが起こったのかは、神のみぞ知る、ということだ。
「試合、もうすぐだろ?」
「はい、覚悟はできています。でも、やっぱり少し不安で……」
綾香が後ろでぴくっと反応するが、何も言わずに、浩之と葵の会話を聞いている。坂下も、おや? と思った。
不安というには、いささか葵は喜び過ぎていた。
……まさか、葵が甘えているわけはないと思うけど。
少なくとも、本人は意識はしていないだろう。もともと、精神力の塊のような葵だ。あがり症も、一度克服してしまえば、後は昔の話、と言い切れるだけの精神力が、葵のその小さな身体の中にはつまっている。
それが、不安?
ゼロではないだろうが、言うほどのものでもないだろう。それを、浩之に甘えていると判断するというのは、あまりにも安易な気もする。
それに、もし葵が甘えているのだとしても、葵はかわいいのだ。憎からず思っているかわいい女の子に、そんな風に言われれば、男ならたいがい悪い気はしないだろう。
浩之の、ある意味おそるべきところは、頼られている、と十分感じれる部分でも、まったく有頂天にならない……
「大丈夫だって、葵ちゃんは強いんだから。俺が保証するぜ」
「は、はいっ」
あーあー、葵の嬉しそうなこと。
坂下も、いい加減ばからしくなってきた。葵の不安を解消してやるのはいいとしても、どう見たっていい雰囲気を横から見ているというのは、楽しいものではない。嫉妬がなくてもそうなのだ、後ろの綾香などは何を考えていることか、と坂下は綾香を盗み見る。
……まあ、これぐらいは許してやるわ、という余裕を、出し切れてないわねえ。
才能にあふれた綾香にしても、やはりあまりうまくない部分というのはある、ということだ。人間らしい部分を見て、少し安心する自分も、やはりまだまだなのだろう、と坂下は自分を戒めた。
「ま、相手も強いだろうけど……むしろ、一回戦ではフラストレーションがたまってないか?」
「ふらすこ……?」
意味がわからなかったのか、葵が首をかしげる。
「あ、いや、欲求不満ってことだ」
それを聞いて、ボッと葵の顔が赤くなる。葵の態度に、浩之は首を傾げたが、まわりで見ている者達は、人のことながら恥ずかしくなって顔をそらした。
……有頂天にはならないかもしれないけど、恐ろしいほど、鈍感。
「次の相手は、おもいっきり戦えるだろ?」
「あ、はい。将子さんは、強いと思います」
一試合目を見ただけでも、その実力は十分うかがい知れる。そんな相手と戦うと思うと、葵の心も、確かにうきうきするものがあった。
その葵の心を読んでか、浩之はにやっと笑った。
「自分の力、思いっきり、出してくるんだ。葵ちゃんを、おもいっきりぶつけてこいっ!」
「は……」
……でも、やっぱり、葵にはこの男が必要なのかも知れない。坂下は、そう思わずにはおれなかった。
葵は、声を張り上げて、浩之のはげましに答えた。
「はいっ!!」
例え、それはもう脅威なほど、鈍感でも。
続く