「ファイトッ!」
試合の合図があっても、葵はすぐにつっかけたりはしなかった。
何かの作戦、というわけではなかったのだが、どうせいきなり仕掛けたところで、将子には効かないだろう、と判断したからだ。
何も考えず、突進して勝てる相手なら、私は今こんなにうれしくないだろう。
試合の最中なのに、葵は少し自分の姿に苦笑した。
勝ちたいと思うのなら、相手が弱い方がいいに決まっている。自分よりも相手がよわければ、時の運があると言っても、勝てて当然だ。
だが、今自分は、強い相手を欲していた。
しかも、勝ちまで欲していた。
矛盾を通り越した、単なるわがまま。葵はそんな自分の姿に苦笑してしまったのだ。
葵がそんなことを思っているのを知っているのか知らないのか、将子は、今初めて、ゆっくりと拳をマットにつけた。
……最初から将子さんが仕切りを取らなかったのは、何故だろう?
今更になって葵はそんな愚にもつかない疑問を感じたが、もしかしたら、最初の仕切りを取っていないときが、唯一のチャンスではなかったのか、とも思えた。
……ならば、誘われていたということだ。
葵がほうけていたからこそ、ひっかからなかったが、これが真面目に対処していれば、葵は最初からつっかかっていったかもしれない。
そして、おそらくは将子に手痛いカウンターを受けていたろう。
考え過ぎな気もしたし、何より葵はその手にはひっかからなかった。考えるだけ、やはり無駄なのだろう。
そこで、葵は初めて自分がまだ構えを取っていないことに気付いた。
……私、何をしているのだろう?
試合が始まれば、ルールにのっとっている限り、いや、気付かれなければ、ルールに反しても、卑怯とは言えない。
確かにエクストリームは格闘技ではあるがスポーツであり、実戦とは大きくかけ離れている。しかし、それでも油断していい場所ではないのだ。
それで、将子さんは仕切りを取らなかったのか。
卑怯ではないが、構えも取らない人間を倒しても、つまらないと将子は思ったのだろう。ということは、将子もやはりわがままということだ。
ゆっくり仕切りを取ったのも、早く構えろと言っているのだ。まだおあずけなのか、将子の顔が、そう言っている。
早く、葵という格闘家の、強さを食べたい。
将子の顔が、訴えてくる。それは、葵にだってわかる。葵も同じような状況なのだ。同類の考えることなど、手に取るようにわかる。
「……えっと」
葵は、少し首をかしげた。その様子を見て、将子がいぶかしげな顔をした、その瞬間、葵は、駆けていた。
距離はあったが、それは、葵にとってみれば、そう長い距離ではなかった。
スパーンッ!!
狙いすました、葵のミドルキックが、将子の顔面を、ガードの上から蹴りつけていた。
と、同時に、葵の身体が後ろにはじかれる。
一瞬間をあけて、やっとその攻防に気付いた観客達が、わっと声をあげる。
構えも取らずに仕掛けた先制のミドルキック。瞬間に、無意識にだが声と表情によるフェイントまでおりまぜたのだが、将子はそれを受けて見せた。
さっきまでの試合とは、明らかに違う緊張感が漂う。
仕掛ける方も仕掛ける方なら、受ける方も受ける方だ。
中には、葵の一試合目の相手が弱かったのだろう、と思っている人間も多かったはずだ。葵にしてみれば、物足りない相手ではあったが、弱いとは言えないレベルだった。
この、一撃目の蹴りが、葵の実力を十分示していた。まわりから見ている者さえ目にとまらない速度の蹴りだ。
将子も、ガードするのが手いっぱいで、反撃までに手がまわらなかった。
しかし、葵は浮かない顔をしていた。
思う以上に、重たい。
葵は、それこそ決めるつもりでミドルキックを放ったのだ。仕切りを取る将子の顔面は下に下がっている。そこをミドルで蹴りつければ、KOは間違いなかった。
最初に仕掛けなかったのは、本当にぼうっとしていたからだ。しかし、将子のじれる顔を見て、今なら、と葵は瞬間に判断した。
声と首をかしげる反則ぎみのフェイントと、構えなしから繰り出すことによって、反撃をされる隙は与えないのに成功した。
自分も構えなしからの蹴りで、少しばかりロスはあったが、フェイントと比較すれば、十分な時間はかせげたはずだった。
その一瞬の差が、やはり勝敗を決めるのだ。
将子は、一瞬早くガードし、振りをあまりつけなかった葵の軽い身体では、蹴った方が後ろに飛んだ形になってしまった。
もちろん、スピードのみを重視したので、いつもよりは体重がかかっていなかったとうこともあるが、将子との間に、実力以外の差があることを、葵は改めて実感した。
下手に軽い打撃を出せば、こちらがはじかれる。
うまく急所に入れないと、自分の打撃では倒せないのがわかっただけでも、十分な収穫なのかもしれない。
将子は、もう距離を取って様子見にまわっている葵を見て、にっと笑った。
さっきの打撃を受けれたから、ではないだろう。葵の蹴りを見て、うれしくなったのだ。
将子の口から、血が一筋たれる。さっきの蹴りで、口の中を切ったのだ。ガード上であろうと、葵の打撃は鋭かったということだ。
しかし、ダメージがあるようには、とても見えなかった。むしろ、さっきよりも生き生きしているようにしか見えない。
でも、それは葵も同じなのだ。
将子の懐は深い。相撲をやっているのだから当たり前なのだが、急所、つまり人体の真ん中に集中した、正中線を狙うのは、かなり難しいだろう。
打撃だけを武器とする葵にとって、将子のような相手はむしろ天敵であると言っていい。打たれ強く、しかも素早く、打撃も、投げも使ってくる。
嫌な相手だ。勝つためには、避けたい相手だった。
だが、葵は自分の顔が笑っているのに、気付いていた。
だって、私は嬉しいから。
今、目の前にいる、強い人と戦えるのが、何よりうれしいから。
見ていてください、センパイ。そして、綾香さん。
試合は、まだまだ始まったばかりだった。
続く