試合場に立った葵の身体を、ピリッと電気のような感触が走った。
一ラウンド目も、決してまずい動きをしていたわけではないのだが、終始将子に押されていたような気がするし、確かにその通りだった。
しかし、休憩を入れて将子を目の前にしたとき、葵はまた、一つを理解することができた。
自分のテンションがあがってくる。
「それでは、位置について」
審判の合図にも、葵は反応せずにただ突っ立っていた。その感触に全てをまかせたかったのだ。今は、試合が始まることよりも、それに心をゆだねていたかった。
審判は、少し首をかしげたが、葵は試合開始位置にはついていたので、手を前につきだした。
「レディー……」
仕切りを取る将子の姿を見て、意味もなく走る衝撃、葵はそれに背を押されるように、構えを取った。
「ファイトッ!」
審判の腕が上がるのに反応して、葵の身体は深く沈んでいた。ギリギリまで腰を落とし、力を溜める。
将子の仕切りからのぶちかましは、ここまではすぐには届かない。しかし、それだけ、一刀足の距離ならば、葵には自信があった。葵のような身体の小さな者は、相手との距離をどれだけ素早く縮めれるかで作戦の幅が大きく違ってくる。
しかし、それだけではできない。どれだけ身体能力があろうとも、相手に飛び込むということは、大きく危険を伴う。
葵は、それを一ラウンドでは選ばなかった。リスクとリターンを考えたときに、そのリスクの危険性に目が行き、そう簡単に踏み込むことができなかったのだ。踏み込むときも、十分な下準備をして、なるべく反撃を受けにくくしていた。
それ自体は間違ってなどいない。一撃受ければ倒される戦いで、慎重になるのは当然の話だ。
だが、それでは相手を倒せないのも事実で。
今の葵は、飛び込んでもいい、と思えるようになっていた。恐怖よりも、将子を倒す、その方がよほど重要にかんじてしまうのだ。
弓のように引き絞られた身体のバネを、さらに強く引き絞りながら、葵はその現象を他人事のように感じていた。
試合をすればするほど、自分のテンションがあがってきているのだ。それは、試合を始める前でも感じていたことなのだが、試合が始まった後でも、まだそれは終わる気配を見せていない。時間が経てば経つほど、葵のテンションは上がってくる。
なるほど、センパイは、こういう世界で戦ったのだ。
いつもならできる気はこれっぽっちもできないような難しい、自分の実力を上回る動きを、自分はやろうとしているのだ。それは通常、無謀と言われる類のもののはずなのに、葵は、今それを無謀とは思わなかった。
将子が、ずいっと、一歩前に出た。身体のバネを引き絞った葵と、正面からぶつかり合うつもりなのだ。将子にとっては自分の有利な戦いだ、受けないわけはないし、それを後ろに下がって逃げるなどという選択肢は、将子にはない。
冷静に考えれば、あるのかもしれない。しかし、将子は将子で、ここにプライドを持って立っているのだ。例えば、相手に後ろは見せないとか、他の人にはどうでもよかろうとも、将子にはそれを裏切ることはできないのだろう。
何故かそう思った。それは、葵も同じだからだ。
もちろん、葵は逃げてもいい。いや、逃げながら戦ってもいい。結果勝てるならば、葵のプライドは保たれるだろう。
しかし、プライドでもない。葵も、それをしたいのだ。将子との、正面からのぶつかり合いを。
条件としては、この上なく悪い。
将子とのリーチも違えば、体重も違う。そう、体重はおそらく五十キロを超える差があるだろう。力だけを取れば、絶望的な差だ。
それに平気で突っ込もうとしている自分の神経を、葵は疑わないわけではないが、しかし、止める気は少しもなかった。
体重は軽かろうが、自分の打撃は、相手を打倒する。
そして、将子のそのぶちかましを破らない限り、葵に勝ち目はないのだ。
これは、勝つためには絶対に必要なことなのだ。
将子のぶちかましを、完全に破る。それで肉体的ダメージが当てれなかったとしても、将子に与えるダメージは計り知れないだろう。
将子は、自分のぶちかましに絶対の自信を持っている。ぶちかまし一つで試合を決めれるなどという傲慢な気持ちではない。ぶちかましから、試合を組み立てることができるという自信だ。
そして、その結果、将子のはつけいる隙がほとんどない。正面から向かえば、超速のぶちかましの餌食であるし、後ろにまわっても振り向きざまの打撃を避けきるのは難しい。
葵はそれを読んで、何とか脚に一撃入れることはできたが、それでも将子の打たれ強さでは、一撃で倒すことはできないし、葵も一撃ガードの上から入れられてしまった。将子の打撃は、衝撃が通る。ガードの意味はあまりなかった。
もう一度やってしまった以上、将子にはその作戦も通じないだろう。それを狙うと見せかけてのフェイントもできないでもないかもしれないが、その程度のことはもう反応してくる、将子の実力ならば、きっとそうだ。
仕切りからの戦術ならば、自分が負けることはない。
その自信を、打ち破らなくてはいけないのだ。そうでないと、葵には将子を倒すことはできないだろう。
しかし、将子は、自信を持ってそれを迎え撃つだろうが、葵には葵の自信があるのだ。
今まで、センパイや、綾香さんとの練習で培った技、力、そういうものが葵がこの戦いに自分をかけることを許してくれるのだ。
ギ……ギ……
身体がきしむほどに、葵は身体を引き絞り終わった。将子のぶちかましの射程距離まで将子は近づいている。待っていたのは、それだけ自分のぶちかましに自信があるからなのだろう。
いや、おそらくは葵と同じなのだ。葵のその自信を、将子はつぶすつもりなのだ。将子にしたって、葵は一筋縄な相手ではないのだ。それを倒すために、葵には何もできないことをわからせねばならない。反対に、そうでもしないと、葵を倒すのは難しいと判断したのだ。
少なくとも、葵は将子に一撃入れたのだから。
その二人の思惑が一致し、今二人は、試合場の真ん中で、同じように相手を射程距離をに捉えながら、動かない状況であった。
しかし、そこからほんの少し動けば、戦いは始まる。それが観客にも伝わり、ピンとはりつめた空気が漂う。
葵は、目を将子に向けた。将子も、葵を正面からにらみつけていた。
来いよ。
将子の目がそう言ってきたのを、葵は感じた。
自分から動いた方が不利なのは、葵もよくわかっていた。だが、最初から、葵は突っ込む気でいた。
今までセンパイ達とやってきたこと……見せる。
葵の身体が、ピクリッ、と動いた。ほぼそれと同じタイミングで、将子の身体も動く。
ドンッ!!
そして、葵の身体は、大きく宙を舞っていた。
続く