いともあっさりと、葵はローキックの間合いに入っていた。
もともと、ローからの組み立ては葵の得意とする動きだ。そこから、ダメージを与えて動きを鈍らすか、またはそのまま直接ハイキックにつなぐ。そういう戦法を葵は好む。ローの距離はしっかりつかんでいる。
バシィッ!
乾いた音を立てて、葵のローキックが将子の脛辺りを強打していた。
だが、その一撃は、わかる者にはわかる、大きな変化があった。
葵は、それに反射的に気付いて、その場から逃げるように飛びのいていた。
ブウンッ!!
空気をそぎ落とすかのような、肘から先を振りかぶる変則の掌打が、葵の顔面の前を通り過ぎた。後数センチで、葵のあごの先が捉えられていた距離だった。
こうなっては、葵には余裕はない。まさに逃げるように将子から大きく距離を取った。そうでもしなければ、将子が踏み込んで来そうだと判断したのだ。
いや、それは間違っていない。実際、すぐに気付いた葵が後ろに下がったにも関わらず、ギリギリで掌打を避けるしかできなかった。
反撃などとんでもない話だった。将子は、まったく崩れていなかったのだ。そんな状態の猛者に無策で飛び込むほど、葵は無謀ではない。
「受けられたわね」
綾香が、ぼそりと面白くなさそうに言う。それは、葵のローキックを受けられたのに腹を立てているのか、それとも、それだけで勝てるとふんだ葵に怒ったからなのか。
「一発目は思いっきり当たってたのになあ」
将子の実力から言って、葵の何の変哲もないローを受けられることは何ら不思議ではない。しかし、一度決まったものだから、浩之も、将子がローキックを受ける方法を知らなかったのだと思ったのだ。
葵も、そう判断したのだと浩之は考えた。飛び込みがあまりにも単調だったからだ。まだ決めるには決定打がないのに、葵はフェイントもそこそこで突っ込んでいた。ロー一つで攻略できるとふんでの行動だったのだろう。
「葵ちゃん、あせるなっ!」
浩之は、たまらずにアドバイスをする。アドバイス自体には、それほど意味のある行為とも思えなかったが、心を落ち着かせるには、それなりの効果を期待できるだろう。
しかし、葵はむしろアドバイスの方を聞いて、はっとした。
葵は自分では十分にフェイントを入れ、丁重に攻めたつもりだったのだ。はたから見れば、あせっているように見えるかもしれないが、葵本人にはそのことがわからなかったのだ。
葵の、経験不足は、こういうところにも出ていた。坂下なら、まだじっくりと行く部分だった。勝ちを焦り過ぎてもろくな結果にならないことを、百戦錬磨の坂下はよく、身体で理解できている。
葵も、事が終わってから、自分があせっていたのにやっと気付いた。目前に見えた勝ちに、どうしても欲が出て、自分が平常で入られなかったのを、今更ながら悔いた。
二度目のローキックで葵が理解したことは二つ。
一つは、自分がわからないうちにあせっていたこと。勝ちというものに自分が引きずられていたことを理解できただけでも、それは意味のあることだ。
この後は、あせったりはしない、と葵は心に決めた。
そして、もう一つ理解したこと。これは、葵の中で一度出て、すでに消えていたはずの予想。
背筋が、凍った。
身体は試合のために微動だにしなかったが、葵の心は嵐のように荒れていた。
そんなことがあるわけがないと思いながらも、目の前に出されると、納得するしかなくなってくる。
「たまたま」、であればどれほどいいことか。
葵のローキックは、ものの見事に受けられていた。
さっきまでは脚をふんばりローキックを直接受けて、葵の動きが止まったところを狙われた。それなら、葵は勝てると思った。
軽くでも、ローのダメージは蓄積されるのだ。それを繰り返せばいいだけだった。
しかし、将子はあっさりと脚をあげ、ダメージを受け流した。さっきまでは、その片鱗さえ見せていなかったのに、完璧なローの防御方法を取られたのだ。
将子がたまたま、ローキックを受けれた、などとは葵も思っていない。そんな甘い幻想が通じる相手ではないのだ。
「たまたま」、を願ったのは、受けれたことではない。受けれなかったことだ。
たまたま、将子は一撃目のローキックを受けそこなった。そうであれば、どれほど話は簡単であったか。攻略法はまた遠のくが、いつも通り戦えばいいだけだった。
しかし、おそらく、違う。
ウレタンナックルをつけた手の平が、じっとりと汗ばむのを葵は感じた。
間違いない、将子さんは、この戦い、私とのこの試合をもって、ローキックの受け方を学んだ。
そう、やはりそうだったのだ。将子は、実力を隠しているのではない。最初に感じた違和感も、やはり一試合目に、打撃系の戦い方を経験したからこそ、成長したのだ。
試合中に、成長?
何もおかしなことではない。将子には、下地があったのだろう。その方法論さえ身体で学べばいいだけだ。エクストリームに出るからには、理論は入っているのだろう。
少しの経験で、将子さんは成長している。しかも、加速的に。
これほど恐い相手はいない。自分が今見積もっている相手の実力が、さらに変わる可能性を秘めているのだ。
相手の動きの限界を読みきって、ここぞというときに無茶をするのも一つの戦法だが、それがまったく通用しない相手だ。
それに、たった少しだけ実戦を経験しただけでこんなに成長するのなら……。
葵が一番恐れているのは、何も相手の実力が読めないからだけではない。その影に、葵にとって酷く重要な人の影が見えたからだ。
センパイにそっくりだ。
今日この日、そして、素人から、綾香に教えられたらしい、葵の知らない時間。そんなことで、みるみる強くなっていく、一人の天才の影が、将子の裏には見えた。
か、勝てない。
自分の中の闘争本能が、みるみる衰えていくのを、葵はどうすることもできなかった。
その成長に、天才の力を見てしまったのだ。いつか勝ちたいと思う、あの天才達に、今葵の手持ちの力では勝てないのを、葵はよく、誰よりもよく知っていた。
試合が長引けば長引くほど、将子さんは強くなっていく。私の戦い方に対する方法を、試合の中で覚えていく。そして、一度覚えれば、もう効かない。
そう思うと、身体が縮こまっていく。筋肉が萎縮し、思うように動かない。今はまだ距離があるからいいが、今攻められれば、あっけなく葵は倒れるだろう。
私は、天才じゃない。試合の中で、成長なんてできない。
ただでさえ押されぎみであるのに、さらに相手が成長するとなると、自分は一体何を持って勝てば、いや、戦えばいいのか、わからない。
でも……このままじゃ……いけない。
わかってはいた、しかし、身体は思うように動かない。
それを見て取ったのか、将子の巨体が、葵との距離をじりじりとつめていく。その動きはゆっくりだが、着実に葵の行動範囲を狭め、そして、心を攻撃していた。
だめ、このままじゃ、やられるっ!
しかし、心の叫びは、動きにならない。葵は、じりっじりっと将子のプレッシャーに押されるように後ろに下がっていた。
まだ将子に警戒があるのだろう、すぐには攻めてこなかったが、それも時間の問題だった。
どうしよう、どうしよう。
葵の心が、身体よりも一足先に袋小路に追い込まれていた、そのときだった。
「葵ちゃんっ!!!!」
歓声の全てを黙らせるほどに、大きな声が、葵の鼓膜を振るわせた。
続く