「待てっ!」
審判の合図があり、二人は離された。基本的にエクストリームには通常の打撃格闘のように、ブレイクを入れることはない。
ニラウンド目が終了したのだ。審判は一分間の休憩をつげて、二人を解放した。
「はっはっはっはっ」
葵は、かなり荒い息で、ふらふらしながら浩之達のもとに帰ってくる。これで有利に事が運んだとは、浩之にはとても思えなかった。
寝た状態では、葵は負ける気はしなかったのだろう。そう思ってグラウンドに誘い込んだまではわかるが、わざとやったにしては、葵は疲れすぎているように浩之には見えた。
浩之のところまでたどり着いた葵は、そのまま浩之の身体にすがりつくようにして荒い息を続けた。
いつもなら、ここぞとばかりに鼻の下をのばすところなのだが、今の葵の姿に、浩之はさすがにそんなことを思えなかった。フルマラソンを走った後のように疲労困憊の葵を見て、鼻の下をのばすには、いかに浩之と言っても、無理な話だった。
「葵ちゃん……」
浩之がはなしかけようとしたのを、葵自身が手でさえぎる。そして、何とか息を整えようと、何度も深呼吸を繰り返しているが、それも焼け石に水のようだった。
「……」
痛々しいわけではなかったが、ダメージは間違いなく葵の身体に入り込んでいた。スピードを信条にする葵が、スピードを落としたとき、何を武器にして戦えるだろうか?
将子にとって、むしろグラウンドの寝技は、弱点だったのだ。しかし、誰もそんなものは狙わない。将子自身も、そう思っていたのかもしれない。
はっきり、体重が違うのだ。寝た状態では、スピードよりもパワーの方が断然有利だ。脚で立っていないだけでも、スピードは完全に殺されているだろうし、体重の重い相手と寝技をしたときの疲労は、軽い者を相手したときと比べて、かなりきつい。
相撲に寝技はない、そうわかっていたとしても、どれだけの人間が、その無謀な作戦に出るだろうか? 技術ではどうにもならない差というものも、そこにはあるはずなのだ。
しかし、葵はそれをあえて敢行した。そして、勝ったとは言い難かった。
負けることがないという予想は、正しかった。だが、疲労までは葵は計算していなかったのかもしれない。三ラウンド、合計九分と聞けばそんなに長くないようにも思えるかもしれないが、その九分の間、ほとんど全速力を続けるのだ。そこでの疲労は、直に勝敗に関係してくる。
インターバルも半分が過ぎようとしていた。まだ息が荒く、しゃべることもできない葵を、浩之が心配そうに、そして、綾香と坂下は厳しい目で見つめていた。
しかし、浩之は振り返れば気づいただろう。綾香にも坂下にも、心配している様子がまったくなかったことに。
「み……」
「水だな、さあ、葵ちゃん」
しゃべれない葵の小さなうめき声のような言葉を浩之は理解して、水筒を葵に渡す。以心伝心かもしれないが、それ以外に今は選択肢がないとも言う。
コク、コク、と少し遠慮するように、葵の喉が鳴る。
心配している今でこそ真剣に葵を見ている浩之だったが、この状況が違えば、ストローから苦しげにスポーツドリンクを飲む葵の少し色っぽい姿に、鼻をのばしていたかもしれない。
「……っはあ」
何口かスポーツジュースを喉に通して、葵は何とか落ち着いたようだった。まだ息が荒いのはどうしようもなかったが、少なくとも離せるぐらいには回復したようだった。
しかし、こんな状況でも、葵はかなり冷静なのでは? と浩之には思えた。息が完全にあがっているほどの状態ならば、飲み物を渡されれば、ガブ飲みしたいところだろう。しかし、それをすると、試合に響く。水分補給は大事だが、それはあくまでゆっくりと摂取せねばならないのだ。葵は、ちゃんとできる限りゆっくりと水分を取っているように見える。
「落ち着いたか、葵ちゃん」
「はい……何とか……」
しかし、まだ声はか細い。今から、こんな子が筋肉の塊のような相手と戦わなければいけないと思うと、、浩之は自分がかわってやりたい気持ちにかられた。
もちろん、そんなことはできないし、やらない。葵は、こんな状況になっても、まだ勝ちをあきらめてはいないだろうし、葵は、これでもまだ将子と戦いたいと思っているはずだ。
何よりも。
浩之によりかかるようにしてかけてあった葵の心地よいほどの重さが、消えた。
息を荒くしながらも、葵は自分の脚だけで立っていた。表情は落ち着いており、その息がなければ、完全にリラックスできている状況だった。
俺なんかがしゃしゃり出ても、負けるのがオチだしな。
「どうだ、やれるか?」
意味のない言葉だ。葵の姿を見れば、誰でもそれは理解できる。浩之にだって理解できる、しかし、声をかけてやりたかった。何にならなくとも、葵に何かを言ってやりたかった。自己満足だとしても、自分の声を葵にとどかせたかった。
「はい……もちろんです」
言葉が途切れるのは、荒い息のせいだが、葵の目には、再び闘志がわきあがってきていた。疲れようが、このまま倒れようが、葵は、勝つつもりでその場に立ったのだ。
「疲労は?」
「もちろん、ないわけは、ないです」
「ま、そうだろうけどな。でも、それでも言うぞ。がんばれ、葵ちゃん」
無茶ではない。葵には、ちゃんと届く言葉だった。それが証拠に、葵はうれしそうに微笑んだ。
「はい、勝ってきますっ!」
無理をしてでも、言っておくべき言葉だったのだろう。葵は、息を整えるのも無視して、大きく返事を返した。
しかし、それは無茶でも何でもないのだ。葵にとってみれば、今の状況は、自分が望んだこと。
「心配しないでください、今の状況は、私の作戦通りですから」
「作戦通り?」
「はい、作戦通りです。それを成功させるためには、疲労するのは仕方なかったんです。少し無謀な部分もありましたけど、ちゃんと、成功しました。それを、今から証明してきます」
それが嘘でないことを、浩之は知っていた。葵は、強がっても、嘘は言わないのだ。ましてや、好きな人の前で、ここぞと言うときに嘘をつけるほど、葵は器用でも、そして不器用でもなかった。
「だから、勝って、戻ってきます」
そう言う葵を、浩之は、元気に送り出そうと思った。それが今の自分にできる、唯一のことだと、浩之は感じた。
「よーし、じゃあ、勝ってこいっ!!」
「はいっ!」
葵の、真価が問われる時間が、来た。
続く