「疲労よ」
綾香の説明は端的ではあったが、何の補助説明もなければ、浩之にはまったく意味のわからないものであった。言葉が指すものの意味はわかっても、ここでは、それが意味をなさないようにしか感じられなかったのだ。
「疲労つっても、そりゃ将子の方もそうかもしれないが、葵ちゃんだってかなり厳しいところまで疲労が来てるだろ。まさか……」
ある一定以上の付加を身体にかけたときに生まれる、人を超えた動き。それを、浩之もほんの先端ではあるが、経験した。そして、それがまず最初に浮かんだ。
無理に身体に負担をかければ、普通はそのまま疲労で倒れるのがせきの山だろうが、葵は、むしろ疲労で倒れることを今まで率先してやってきた。それで身体が動かないほどに疲労することもあるが、それを続けることによって、おそらくその世界に葵は近い。
だが、浩之の見る限り、葵の動きは無理でない範囲のものだった。むしろ、疲労で遅くなっているのではないかとさえ感じる。
それでも、将子の攻撃を避けているのだ。いや、それを言うならむしろ……。
「将子選手の攻撃が、当たらない?」
その前に出る迫力によって気付きにくかったが、将子の動きがにぶっているのだ。葵ならば、その動き、全て見切ることは、簡単ではなくとも、不可能ではない。
「って、何でだ? さっきまで、将子選手の動きはあんなに速かったのに」
その体格で、葵にも劣らないスピードで動くのだ。葵が攻めあぐねていたのは当然。だが、それからスピードが切れたとき、葵の敵ではない。
当たれば、それでも怖いだろう。しかし、もう葵には将子の手は当たらない。
意識してみれば一目瞭然だ。すでに将子は脚をひきずっている。前に出る迫力も、最初と比べればかなり衰えている。脇も、少しずつだがひらいてきているように見えた。
「ダメージが? いや、クリーンヒットはあったが、効いた様子は……」
脚を痛めたのか、と浩之は思った。いかにパワーがあろうとも、脚の動きなしではスピードはかなり制限される。
しかし、それならば脚ははれあがるだろうし、将子の動きはどこかをかばっているようには見えなかった。
「だから、疲労って言ってるでしょ。葵は、試合をスタミナ勝負に持っていったのよ」
「身体が軽い方が、スタミナ的には有利ってわけか」
そういえば、相手が相撲取りと聞いて、浩之は最初にその作戦を考えた。動いて相手をまどわせて、スタミナを削る。体重が重いということは、疲労は確実に多いということだから、正直悪くない作戦だと自分でも思っていた。
いや、むしろ、普通はそう考える。その身体に打撃は効かないし、組み技で相撲に勝てるとは到底思えないだろうから、順当な作戦だった。
それが、将子を見て無理だと思ったのは、その鍛え上げられた身体を見たからだ。無駄な脂肪のない、筋肉の塊のような相手と、スタミナで勝負しようと誰が考えるだろうか?
しかし、葵はそれを考えた。その身体を見てなお、スタミナならば自分の方が勝っていると考えれるその自信は、すでに精神的に浩之の援助など必要ないのかもしれない。
「そんなにおかしな話じゃないわよ。筋肉でも、重しは重し。スタミナを無駄に消費するのよ、大きな身体ってのは」
浩之の目が綾香の抜群のプロポーションにそそがれたのは、何も綾香だからこそそれを無駄と言えるのだと、今更ながら思っただけでは、当然ない。
「スケベ」
「うぐっ、いや、俺はただ、綾香だからそれが言えるんだと思っただけだって。葵ちゃんだって、大きな身体が欲しいっていつでも言ってるしな」
「葵のパワー不足は今に始まったことじゃないものね。でも、そのおかげで、スピードとスタミナを手に入れているんだから、悪い話じゃないんじゃない? 筋力自体は、まだ鍛えれるし」
葵がこれ以上強くなったら、どうなるのだろうか? 浩之は怖いものを感じた。今でさえ、葵にパワーでも負けているのだ。それがさらに強くなるなど、正気の沙汰ではない。
「つまり、葵ちゃんは、スタミナなら勝てるって、冷静に判断したわけだな」
「それだけじゃないわよ。ほら、二ラウンド目、葵は相手のボディばっかり狙ってたでしょ?」
「ん? ああ、そうだな。でも、それはあんまり関係ねえんじゃないのか?」
葵のボディブローなど、崩拳でなかろうとももらえば悶絶物だ。ボクシングでもスタミナを削るためにボディを狙うことは多い。中心にあるものだし、目標が大きいのでなかなか全てをさけることはできない上に、基本的には近距離で打たれるので、当然当たる。
セオリーとしてはまちがっていないのだろうが、浩之はそれこそ間違いだろうと思った。葵がボディを打つのを見て、意味のない行動だとさえ思ったのだ。
「相撲取りに、ボディは効かないんじゃないのか? しかも、将子選手って、かなり筋肉質だろ」
確かに一番打たれやすい場所なのだが、ボディは鍛え易い場所でもあった。筋肉がつき易いのだ。だから、打撃格闘者などは、鋼のようなボディを持っていたりする。相撲取りは、その頑丈な筋肉の上に、さらに衝撃を吸収する贅肉をつけているのだ。ボディが効くとは到底思えない。
「だからこそ、って話ね。まず、普通の相撲取りと違って、将子選手には贅肉がないじゃない」
「それにしたって、あの身体だろ?」
ボディービルダーをさらにふた周りは大きくしたような筋肉の塊だ。並の打撃が、効くとは思えない。ましてや、一番筋肉の厚いボディなど……。
「大したことないのよ、あの身体は」
「へ?」
これは、いかに天才で、異常に強い綾香が言った言葉でも、浩之は首をかしげた。怪物はそれは違うかもしれないが、将子の身体は伊達や酔狂ではないのは、浩之が見てさえわかる。
「あの筋肉は、伊達ってことか?」
「ううん、それは、打撃を打ったり、相手にぶつかったりするのには、役にたってるとは思うけど、ボディは、打撃格闘家のそれじゃないのよ。むしろ、盲点かもしれないけど、相撲取りにとって、ボディは弱点って言っていいと思うわ」
「弱点……なのか?」
その理論は浩之にはわからなかった。筋肉もついていて、さらに脂肪もある。それを打倒するのは、かなり骨の折れることなのでは、と思った。
「だって、考えてもみなさいよ。相撲取りのお腹を、誰が攻撃するのよ。ううん、相撲取りが、一度でもお腹を強打されることがあると思う?」
「……」
「相撲取りは、もともと身体を前のめにして、ぶつかるのが普通の戦い方じゃない。そうすると、首は強くはなるけど、腹は打撃用にできないのよ。脚はまだ投げに足技がある分、ある程度受けたりするけど、腹は、一度も殴られたことがないでしょうね」
誰も急所と思わない急所。いや、本人さえそこが急所ということを知らないのだ。だから、無視して攻撃を続けたのだ。自分の筋肉の前には、打撃など通用しないと信じて。
「ボディは後から効いてくるのよ。しかも、葵のボディでしょ? むしろ、あれだけの筋肉を作ってなかったら、その場で吐くわよ」
ビシッと、また葵の攻撃が将子を捉える。少しずつ、その差が出てきているのだ。
「このまま戦えば、差は開くばかりよ。ボディの効果なんて、将子には理解できないだろうから、自分がどうして打たれるのかわからないまま、終わりね」
綾香は、葵の勝ちを宣言した。
葵も疲労が厳しいだろうが、同じように、いや、それ以上に将子は疲れていくのだ。葵の勝ちは決まったようなものだった。
ガクッと、ダメージではなく、疲労で将子の膝が落ちる。その一瞬の隙を、葵は見逃さなかった。
ズバシュ!!
葵のフックが、将子のテンプルをとらえていた。
「ね?」
と綾香が言った瞬間。
ズガンッ!!
重火器を打つような音をたてて、将子の腕が葵の細い身体を捉えていた。そのまま、葵の身体が吹き飛ぶ。
「……あれ?」
綾香の、間の抜けた声が、呆然とする浩之の耳に入った。
続く