「……あれ?」
綾香には珍しい、かなり間の抜けた声だった。驚くという行為一を綾香がするなどということは、あまりありえなかった。ましてや、間の抜けた声など、綾香にはまずありえないことだ。
しかし、それも仕方ない話だった。綾香は、すでに将子が終わっていると思っていたのだ。どんな根性だろうと、疲労を回復させてくれるわけではないのだから。
綾香の予想を大きく外して、葵の小さな身体が、大きく宙をまっていた。
……ドンッ
少しの滞空時間の後、葵の身体がマットの上に落ちた。後ろに飛ばされたとか、わざと倒れたとか、そんなものではない。完全に、将子の張り手にも似た腕の一撃で、跳ね飛ばされたのだ。
ハアッハアッと、将子は荒い息を吐きながらも、苦しそうに、しかし笑った。
「なめんじゃ……ないよ」
決して大きな声ではなかったが、浩之の耳にははっきりと届いた。将子のその言葉に込められたものが、そうさせたのだろうか?
「うそ……」
綾香が、横で目をまるくして、今の状況を信じられないもののように見ている。それが葵が今倒されていることよりも、自分の予想が外れたことに対する驚きのように思えて、浩之は少しむっとした。
だが、浩之だって綾香にかまっている暇はなかった。
「葵ちゃんっ!!」
浩之の声にも、葵はぴくりとも動かない。そんな葵を、将子は立ったまま見下ろすだけで追い討ちをかけようとしない。今ならば、完全に決着をつけれると思うのだが、さて、これを罠と考えているのか、それとも、将子にも動く余裕がないのか。
「葵、立ちなさいっ!!」
やっと立ち直った綾香が怒鳴る。綾香には、本戦で葵と戦うという選択肢しかないのだろう。こんなところで葵が負けるのを、綾香は許さない。
許さないとしても、戦っているのは葵であり、そして葵は倒れたまま、ピクリとも動かない。
「ワンッ、ツー……」
将子が追撃しないのを見て、審判がカウントを始めた。脇を押さえたまま、将子もやはり動けないようだった。それもそのはず、綾香が予想したよりも動いたということは、かなり身体に負担をかけたということだ。
「葵ちゃんっ!!」
再度、浩之は葵に向かって叫んだ。自分の声がどれだけ力になるのかわからなかったが、少しでも力になるのなら、いや、そうでなかろうとも、叫ばずにはおれなかった。
こんなところで、葵ちゃんが負ける?
浩之には、想像できなかった。葵が負けるのは、綾香にだけ。そう、葵は綾香を倒すのが目的なのだ、それ以外の相手に負けては駄目なのだ。
あせる二人をよそに、坂下だけが、冷静に試合場を見ていた。浩之の予想では、もっとさせるものだと思っていたので、一瞬浩之の意識がそちらに向く。
坂下は、下手をすれば葵に対しては、どこか突き放した感覚のある綾香以上に過保護だ。大切な後輩であることは、例え自分の部活に入らなくても同じようで、何かと葵に力を貸してくれている。
しかし、その坂下は、動じもしなかった。
ワッとあがった歓声に、浩之が試合場を見ると、いつの間にか葵は立ち上がっていた。今の今まで、ぴくりともうごかなかったのに、まったくダメージがないのかと疑わせるほどに、何の変化もなく。
「やれるかい?」
審判の声に、葵はうなずく。そして、いつもの左半身の構えを取った。動きにぎこちさはない。
「はい、やれます」
嫌に静かな、落ち着いた声だった。浩之は、それにどこか薄ら寒いものを感じた。いつもの葵なのだが、それが、まるで別人に感じたのだ。
葵の様子に、将子が少なからず動揺しているよにも見えた。おそらく、腕にはかなりの手ごたえを感じたのだろう。それこそ、確実に相手を打倒した感触を。それを立ってこられれば、驚いても仕方ないだろう。
とりあえず、何はともあれ、浩之はほっと胸をなでおろした。とにもかくにも、葵は立ち上がった。そして、まだ戦えるように見える。
「何、藤田、これしきのことで死にそうな顔して」
「いや、実際あせるだろ、あんな受け身も取れないで倒れたら」
これぐらいで倒れる葵ではないとは思っていたが、あの吹き飛ばされ方も、倒れ方も、あたったときの音も、KO必死のものであった。それに、葵が倒れたのを冷静に見ている坂下の方がどうかしているのでは、と浩之は思った。
「油断しすぎよ、葵は。あんな見え見えの大振りの攻撃をもらうなんて」
綾香はそう言って鼻をならした。確かに大降りではあったかもしれないが、決して大降りではない攻撃だった。ましてや、攻撃の後の隙をつかれたのだ。疲労もあいまって、避けるのは無理としか思えない。
それに、さっきまで驚いていたのに、今そんなことを言っても説得力がなかった。そんな強がる綾香を、坂下はジロリと睨んだ。
「綾香も、浩之もそうだけど、あんたたち、才能以外をなめすぎているのよ」
「?」
綾香は首をかしげた。坂下の言っている意味がわからなかったのだろう。浩之には、何となく言いたいことはわかったが、綾香と一緒にされるのは納得いかなかった。
「あんなの、相手の将子選手の後輩の慕われ方を見れば、予想つく話だ」
「何でよ?」
「……だからあんたは、そりゃ才能に恵まれているから、どれだけ練習してるのか知らない。でも、部活で後輩に慕われるってのは、人柄と、もう一つは、いかにそいつが練習しているかってことよ。そして、血を吐くような練習で培われた体力は、こんなときに力となる、そういう話さ」
「……」
血のにじむような練習が、それを可能にしたのだ。もう息が切れて、そしてボディを打たれ、回復もしない身体で、相手を張り倒すだけの力をつむぎだす。
それは、血のにじむ練習をしてきたからこそのもの。綾香には、違う方法はあっても、これはできないはずだ。
「私にとっては、驚くほどの話じゃない。それに……」
そして、同じ理由で、坂下は葵が倒されても、そして、倒れても、驚きもしなかったし、信じることができた。
「葵なら、これぐらい、絶対立ってくるに決まってるもの」
坂下の、葵と、そして練習に対する信頼の言葉と同時に、葵の様子を見て、平気だと判断した審判が合図を送り、試合は再開された。
「それでは、はじめっ!」
続く