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最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(106)

 

 綾香は右を見た。

 右は体育館のコンクリートの壁だ。いかに綾香とて、これを破壊、というのは骨が折れる。

 綾香は、今度は左を見た。

 体格のいい、女だった。しかし、女と言っても、その体躯は坂下の比ではない。葵などと比べれば、いかに葵が小娘なのかということを再確認できたろう。

 後ろにつも、ついでにツイと目を向ける。

 同じく、体格の良い女がいた。

 前を見ても、そこにいるのは体格のいい女。

 その手の趣味の人間なら、喜びで天にものぼるような気持ちになれるかもしれないし、普通の人間なら、恐怖で足がすくむ場面かも知れない。

 しかし、綾香は面白くもなさそうに平然と立っていた。健気に恐怖を隠しているわけでもない。当然、喜んでいるわけでも……少しは、ある。

 その面白くなさそうにする、興味などないという演技は、見る者がいればすぐに看破されるほどの薄っぺらいものだ。もともと、綾香はその手のことは得意ではないし、別段本当に隠し通そうなどとは、常々思っていないのだから。

 興味のない相手の顔など、そう長く覚えておく気などない綾香だが、この一段が今まで会ったことのある団体だというのは、覚えていた。それもそのはず、こんな体格のいい女が大勢集まっているなど、このエクストリームでも一つしかなかったからだ。

 そういう意味では、顔を覚えていたわけではなく、身体を覚えていたわけだ。こう言うとエッチくさいが、いかんせん、今はそんな冗談を言えるような場面ではなかった。

「……何、負けたはらいせに、本人にじゃなくて、その先輩にお礼参り?」

 目の前にいる、大柄のこの団体の中では一番小さな、それでも綾香の身体など優に上回るこの女にだけは、綾香は顔に覚えがあった。

「まさか」

 屈辱的な挑発であるはずなのに、他の殺気立つ後輩とはうって変わって、その綾香が顔を覚えていた相手、枕将子はその言葉を軽く受け流した。

「だいたい、まともにやったら、あんたにはうちの後輩全員がかかったって、こっちが返り討ちにあうなんて目に見えてるじゃないか」

「あら、一応、わかってるんじゃない」

 ここにいる体格のいい女が全員でかかる、などまともな方法ではないのだが、綾香にしてみれば、そんなに恐ろしいものではなかった。

 普通なら、いかに達人の域に達していようとも、大勢に、しかも体格で勝る者達に一斉に襲い掛かられれば、負けるのは目に見えている。だが、綾香はもう、普通ではないのだ。

 綾香自身も、最近ひしひしと感じれるようになった。

 今綾香が本気を出せば、綾香が逃げるのをふさいでいるこの大柄な女達を全て倒すのに、二分もかからないだろう。

 もうそれは妄想でも予想でもなく、事実だ。綾香の中に確固とある未来あるだろうこと。もちろん、襲ってこなければ、ものすごい、それこそ浩之が綾香をふるぐらいの、嫌なことがあって、誰でもいいから八つ当たりをしたい、という状況でもなければ、綾香もそんな無駄なことはしないつもりだが、自分に向かってくるなら、死なない程度の手加減しかしない。

「で、私に何か用?」

 もう少し挑発しようかとも思ったが、大して意味のある行為とも思えなかったので、綾香はそれをやめた。この流れから言って、すでに相手は自分の望む行動と同じ行動を取ろうとしているのに、けっこう最初から気付いていたからだ。

「何、大した用じゃない」

 そう言いながら、将子は着ていたジャージを脱いで、後輩に渡した。その下は、さっき試合をした格好のままであった。

「あんたとの立ち合いが所望だ」

 何かえらく古びた言い方をするものだなあ、と思いながらも、思わずほほがほころぶ。

「理由は?」

 別にじらせるつもりはないのだが、綾香はそう訊ねていた。

「理由? 強いやつと戦いたいという気持ち以外に、理由が必要かい?」

 さっき葵にKOされたばかりだというのに、もう将子の身体には闘志が流れ込んでいた。

「本当は、本戦でじっくり味わいたかったんだけど、知っての通り、あんたの後輩に見事なまでのKOをくらっちまってね。まあ、まともな方法じゃないが、エクストリーム最強の王女と呼ばれた綾香さんの実力、体験するまでは引き下がれないのは、わかるだろう?」

 わかる、くやしくないが、わかる。綾香だって同じ立場なら……同じ立場には絶対ならないこそ綾香なのだが、同じことをしようとしたかもしれない。いや、自分はともかく、他の人間は、そうすることをよくわかる。

 だから、綾香はわざわざ一人で歩いていたのだ。決して勝った葵に、浩之と二人きりというご褒美をあげたわけではない。

「……で、人間の壁ってわけね」

「綾香さんが本気で逃げようとすれば簡単だろうが、戦っているときに他の人間に止められるのは嫌だったんでね」

 確かに、綾香は逃げようと思えば、上を飛び越えてだって、全員倒してだって逃げれる。

 しかし、それでは面白くないのも事実。

「相手、してくれないかい? 資格がないのは重々承知、この後、傷害罪でつかまってもいい。だが、あんたを感じれないで帰るなんて選択肢、わたしにゃないんだよ」

「そんなケツの穴の小さいこと言わないわよ」

 あら、ケツの穴なんて失礼、と綾香はわざとらしく口元を押さえて笑うと、トントンと飛んで身体をほぐす。

 準備は、もうできていた。

 さっきから、熱い試合を見ていただけに、綾香の身体はすでにほてっていた。相手を求めて、ふらふらとこんな場所まで来てしまうほどに。

「いいわ、受けてあげる。葵にとっても、丁度いい練習相手になってくれたんだもの。感謝の意味も込めて……」

 綾香の中の格闘バカのスイッチが、ほんの少しだけ入る。全部を入れると、それこそここにいる動く者を全部食ってしまいかねない。だが、今試合でもなく、それを入れるだけのものが、将子にあると綾香は判断してやったのだ。それは感謝されることだと、綾香は思うのだ。

「少しだけ、本気を出してあげる」

 いかにも、傲慢な言葉。人を蔑むわけでもないのに、綾香は自然とそういうものを口にした。

 ギリッとまわりの後輩達が歯軋りをするほどの挑発だったが、将子はそんなことおかまいなしに、うれしそうに笑った。それはまるで子供のような笑いだった。

「ありがたい、感謝するよ」

「いいのよ、私もそろそろ身体動かしとかないと、浩之をとばっちりで殴り殺してしまいかねないし」

 浩之が聞いたら、顔を青くするだけではすまないような脅迫、そしてここにいる将子以外には挑発を、綾香は口にしながら、綾香は妖艶に、いや、違う、危険に、笑った。

 

続く

 

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