綾香は右を見た。
右は体育館のコンクリートの壁だ。いかに綾香とて、これを破壊、というのは骨が折れる。
綾香は、今度は左を見た。
体格のいい、女だった。しかし、女と言っても、その体躯は坂下の比ではない。葵などと比べれば、いかに葵が小娘なのかということを再確認できたろう。
後ろにつも、ついでにツイと目を向ける。
同じく、体格の良い女がいた。
前を見ても、そこにいるのは体格のいい女。
その手の趣味の人間なら、喜びで天にものぼるような気持ちになれるかもしれないし、普通の人間なら、恐怖で足がすくむ場面かも知れない。
しかし、綾香は面白くもなさそうに平然と立っていた。健気に恐怖を隠しているわけでもない。当然、喜んでいるわけでも……少しは、ある。
その面白くなさそうにする、興味などないという演技は、見る者がいればすぐに看破されるほどの薄っぺらいものだ。もともと、綾香はその手のことは得意ではないし、別段本当に隠し通そうなどとは、常々思っていないのだから。
興味のない相手の顔など、そう長く覚えておく気などない綾香だが、この一段が今まで会ったことのある団体だというのは、覚えていた。それもそのはず、こんな体格のいい女が大勢集まっているなど、このエクストリームでも一つしかなかったからだ。
そういう意味では、顔を覚えていたわけではなく、身体を覚えていたわけだ。こう言うとエッチくさいが、いかんせん、今はそんな冗談を言えるような場面ではなかった。
「……何、負けたはらいせに、本人にじゃなくて、その先輩にお礼参り?」
目の前にいる、大柄のこの団体の中では一番小さな、それでも綾香の身体など優に上回るこの女にだけは、綾香は顔に覚えがあった。
「まさか」
屈辱的な挑発であるはずなのに、他の殺気立つ後輩とはうって変わって、その綾香が顔を覚えていた相手、枕将子はその言葉を軽く受け流した。
「だいたい、まともにやったら、あんたにはうちの後輩全員がかかったって、こっちが返り討ちにあうなんて目に見えてるじゃないか」
「あら、一応、わかってるんじゃない」
ここにいる体格のいい女が全員でかかる、などまともな方法ではないのだが、綾香にしてみれば、そんなに恐ろしいものではなかった。
普通なら、いかに達人の域に達していようとも、大勢に、しかも体格で勝る者達に一斉に襲い掛かられれば、負けるのは目に見えている。だが、綾香はもう、普通ではないのだ。
綾香自身も、最近ひしひしと感じれるようになった。
今綾香が本気を出せば、綾香が逃げるのをふさいでいるこの大柄な女達を全て倒すのに、二分もかからないだろう。
もうそれは妄想でも予想でもなく、事実だ。綾香の中に確固とある未来あるだろうこと。もちろん、襲ってこなければ、ものすごい、それこそ浩之が綾香をふるぐらいの、嫌なことがあって、誰でもいいから八つ当たりをしたい、という状況でもなければ、綾香もそんな無駄なことはしないつもりだが、自分に向かってくるなら、死なない程度の手加減しかしない。
「で、私に何か用?」
もう少し挑発しようかとも思ったが、大して意味のある行為とも思えなかったので、綾香はそれをやめた。この流れから言って、すでに相手は自分の望む行動と同じ行動を取ろうとしているのに、けっこう最初から気付いていたからだ。
「何、大した用じゃない」
そう言いながら、将子は着ていたジャージを脱いで、後輩に渡した。その下は、さっき試合をした格好のままであった。
「あんたとの立ち合いが所望だ」
何かえらく古びた言い方をするものだなあ、と思いながらも、思わずほほがほころぶ。
「理由は?」
別にじらせるつもりはないのだが、綾香はそう訊ねていた。
「理由? 強いやつと戦いたいという気持ち以外に、理由が必要かい?」
さっき葵にKOされたばかりだというのに、もう将子の身体には闘志が流れ込んでいた。
「本当は、本戦でじっくり味わいたかったんだけど、知っての通り、あんたの後輩に見事なまでのKOをくらっちまってね。まあ、まともな方法じゃないが、エクストリーム最強の王女と呼ばれた綾香さんの実力、体験するまでは引き下がれないのは、わかるだろう?」
わかる、くやしくないが、わかる。綾香だって同じ立場なら……同じ立場には絶対ならないこそ綾香なのだが、同じことをしようとしたかもしれない。いや、自分はともかく、他の人間は、そうすることをよくわかる。
だから、綾香はわざわざ一人で歩いていたのだ。決して勝った葵に、浩之と二人きりというご褒美をあげたわけではない。
「……で、人間の壁ってわけね」
「綾香さんが本気で逃げようとすれば簡単だろうが、戦っているときに他の人間に止められるのは嫌だったんでね」
確かに、綾香は逃げようと思えば、上を飛び越えてだって、全員倒してだって逃げれる。
しかし、それでは面白くないのも事実。
「相手、してくれないかい? 資格がないのは重々承知、この後、傷害罪でつかまってもいい。だが、あんたを感じれないで帰るなんて選択肢、わたしにゃないんだよ」
「そんなケツの穴の小さいこと言わないわよ」
あら、ケツの穴なんて失礼、と綾香はわざとらしく口元を押さえて笑うと、トントンと飛んで身体をほぐす。
準備は、もうできていた。
さっきから、熱い試合を見ていただけに、綾香の身体はすでにほてっていた。相手を求めて、ふらふらとこんな場所まで来てしまうほどに。
「いいわ、受けてあげる。葵にとっても、丁度いい練習相手になってくれたんだもの。感謝の意味も込めて……」
綾香の中の格闘バカのスイッチが、ほんの少しだけ入る。全部を入れると、それこそここにいる動く者を全部食ってしまいかねない。だが、今試合でもなく、それを入れるだけのものが、将子にあると綾香は判断してやったのだ。それは感謝されることだと、綾香は思うのだ。
「少しだけ、本気を出してあげる」
いかにも、傲慢な言葉。人を蔑むわけでもないのに、綾香は自然とそういうものを口にした。
ギリッとまわりの後輩達が歯軋りをするほどの挑発だったが、将子はそんなことおかまいなしに、うれしそうに笑った。それはまるで子供のような笑いだった。
「ありがたい、感謝するよ」
「いいのよ、私もそろそろ身体動かしとかないと、浩之をとばっちりで殴り殺してしまいかねないし」
浩之が聞いたら、顔を青くするだけではすまないような脅迫、そしてここにいる将子以外には挑発を、綾香は口にしながら、綾香は妖艶に、いや、違う、危険に、笑った。
続く