「で、相手はしてあげるけど……私、ウレタンナックルなんて持ってきてないわよ」
綾香はそう言いながら両手をひらひらさせる。戦うつもりでここに立っているはずの将子がウレタンナックルをつけていないのはすでに目に入っていた。
「必要かい?」
それは、何も綾香を挑発しての発言ではない。単に、将子はそれを必要とは感じなかったのだろう。しかし、それもそうだ。相撲では拳は使わない。将子の拳も、相手を殴るようにはできていない。であれば、ウレタンナックルなど、何の必要性も感じないということだ。
もっとも、それは守りにも十分意味のあるものなのだが、将子自身は必要ないと感じたのだろう。
「必要なら、私のを貸すよ」
「ううん、言ってみただけっていうか……私の拳、そのままうけるつもり?」
「綾香さんの拳か……うけてみたいねえ」
いや、ウレタンナックルを打撃格闘者がつけないのは、あまりいい選択とは言えない。確かに、素の拳で殴られれば、殴られた方はただでは済まない。しかし、殴った方もただでは済まないのだ。
こんな、単なるケンカとしか思えない場所で、綾香の拳を痛めるのはあまり得策とは言えなかった。
「拳の心配をしているんなら、つけるべきだね。私は、拳は使わないからいいけど」
「いいわよ、私の拳は、ウレタンナックルをつけないからってどうこうなるほど甘いもんじゃないし」
綾香も、それはさらっと流す。綾香の拳は、その細身の指に反して、硬い。葵もそうだが、硬いものを叩いてこその空手だ。わざわざ付加をかける練習だってあるのだ。
もちろん、綾香はもとから骨が頑丈というのもあるのだが。
「でも、それだと、これはエクストリームじゃないってわけね」
「? ああ、私と綾香さんの、私闘、よく言って異種格闘技戦の野試合、ってところだろうね。それが?」
「うん、それならいいのよ」
綾香はそれを聞いて、いじわるそうに笑う。そんな穏やかな笑いではないのだが、まさに、いじが悪い、としか表現できなかった。
「てことは、エクストリームのルールは守る必要はないわよね。目つき以外、禁じ手はなしでいいわよね?」
その言葉で、戦いたくはあっても、今までどちらかと言えば温厚であった将子の目つきが鋭いものに変わる。
「それは……相撲取りに、頭突きを使わせるつもりかい?」
将子が殺気をはらむ意味が、その言葉にはあった。
もともと、相撲は頭で取るものと言っていい。しかも、頭というのは、頭を使って、頭脳プレイをするという意味ではない。
言葉通り、頭をぶつけるのだ。もちろん、頭突きがあるわけではないのだが、ぶちかましでぶつかったとき、まず頭から突進するのだ。
ただでさえ、頭突きというのは恐ろしい技だ。どんな総合格闘技でも禁止されているのは、その強さからと言ってもいい。その頭突きを、公然と練習してきた相撲取りが、頭突きを使う、その意味は、大きい。
「いいわね、そういえば相撲取りには頭突きがあったわよね」
しかし、綾香は実はあんまりそんなことなど考えていなかった。ただ、そっちの方が面白そうで、さらに言えばそっちの方が、終わった後、この身体のほてりが少しでも抜けるだろうと思って選んだに過ぎなかった。
「いいんじゃない? 私だって、目つき以外の空手の技、使わせてもらうし」
綾香の場合、下手をすれば使う技は空手でさえないのだ。将子は、それでも使うのは相撲だろう。どっちが卑怯かと言えば、綾香の方が卑怯なような気もする。
「……後悔するよ。その綺麗な顔、二度と見れなくなるかもしれないよ」
将子は、本当に綾香の身を案じていた。綾香には、格闘技以外にも、多くがある。それを踏み潰されることになるかもしれないのだ、他人だって躊躇する。
将子は、頭突きを直撃させれば、綾香の顔面をつぶす自信があった。相撲をとっているときでさえ、意識的にセーブして行っている頭突きを、全開にしろ、と綾香は言っているのだから。
しかし、綾香は綾香の方で、それでこそ楽しい、と思えた。
「ま、そっちも、私にケンカを売るんだから、しばらくは病院でおとなしくしてる覚悟は必要だと思うわよ」
嘘ではない。綾香は、将子を病院送りにするつもりで戦うのだ。そうなれば、将子の未来は綾香的にはほぼ決定したものと言っていい。
「望むところだね」
ニッと将子は男らしい笑顔を作ると、腰を落として、仕切りを取った。
「準備体操はいるかい?」
「ううん、いつでもいいわよ。正直言って、私もだいぶ、我慢の限界に来てるから」
聞く者が聞けば、色っぽくも聞こえる内容だが、おそらく、綾香をよく知る者がいれば、真っ先に背中を向けて逃げていたろう。もっとも、逃げるのはどうも浩之に偏りそうではあるが。
「合図は、もういいんじゃないの? いつでも、いいわよ」
綾香も、すっと構えを取る。
ピキンッと、空間自体が緊張したような風圧を、その場にいたものは感じた。ただ構えただけであるのに、その強さが、辺りに飛び火していた。
それは奇妙な構えだった。左半身の構えで、左腕は手の平を地面にむけた状態で、少しひじをまげて上にかまえられている。右腕は、軽く拳を握った状態で、低く腰にすえつけられていた。
脇はがらあきだし、そもそも、そこから一体どんな打撃を狙ってくるのか、さっぱりわからない。上からの重圧が邪魔ではあるが、下からの攻撃をおろそかにもできない。
守りから言えば、理にかなっていない構え。攻撃としても、さて、これが理にかなっているのか、と言われると、首をかしげる構え。
だが、それと対面している将子には、その怖さが肌で感じれた。どこをどうしてくるかなど、まるで読めない。だが、それが危険であることだけは、理解できた。
とは言え、将子とて後退のネジはすでに除去してある。いかに危険であろうとも、前に出て、綾香を吹き飛ばすだけ、それだけを考えて、ジリッと仕切りを前に出す。
おそらく、カウンターは取れない。
将子も、自分のスピードが綾香に負けていることはさすがにわかっていた。それでは、カウンターなど取れない。パワーと重圧で押し切る、それぐらいしか、手はないと感じていた。
こちらから、しかけるしかない。
自分の体重よりも厳しい綾香から伝わるプレッシャーを、将子はその力で押し切り、拳で、地面を叩いた。
続く