「ッ!!」
肩を襲った激痛に、将子の身体は、自分の意思に反して、その場に崩れた。何とか膝も手もつかなかったのは、相撲取りの意地だ。
激痛を必死に堪え、綾香に反撃しようとするが、そのときにはすでに綾香は素早く距離を取って逃げていた。
いや、距離を取ったのは、逃げたからではない。綾香がその気ならば、さっきの激痛に耐えている時間の間に、倒せたはずだ。
「へえ、凄いわねえ」
綾香は、本当に感心したのか、しみじみと将子の身体を見る。
「相撲取りが、痛みぐらいで膝を屈するわけにはいかないんでね」
そういう将子の顔にはあぶら汗が流れていた。肩を押さえて、無理をしているのが誰の目にも明らかだった。
「せ、先輩、大丈夫ですか?」
あまりに将子が無理をしているように見えたので、怒られるのも覚悟で、後輩の一人が将子に尋ねる。
それに、将子は苦々しく笑いながら答えた。
「あんまり大丈夫じゃないかもねえ。鎖骨、もってかれたよ」
「……鎖骨?」
「ああ、これは、ヒビは確実だな。驚きだよ、こんなに簡単に、人の骨にヒビを入れてくるんだからね」
後輩達は絶句して、綾香に文句も言えなかった。相撲だろうが、他の格闘技だろうが、誰が好き好んで相手の骨を痛めようとするだろうか?
しかも、これは単なる野試合なのだ。勝ったところで、何の利益もない。下手をして相手に怪我をおわせようものなら、傷害罪でつかまるかもしれない。
だが、ヒビが入っていると聞いても、綾香は少しも驚かなかった。それどころか、さらに過激なことを口にする。
「驚いてるのは私の方よ。私はてっきり、折れるものと思ってたわ」
「鍛え方が違う、って言いたいんだけど、今回は単に生まれつきの骨の丈夫さが幸運だった、ってことだね」
それでも、鎖骨にヒビを入れられた以上、将子はこれ以上戦えないだろう。相撲は前からぶつかるので、鎖骨は直に当たるし、別に他の格闘技でも、はっきり言って無理だ。
綾香は、アッパーを避けさせ、そこで開いた肩を狙ったのだ。ラビットパンチと同じ、相手によけさせてからのコンビネーションである。
上から振り下ろす肘を、さすがに将子も読めなかった。いや、読めてたとしても、先に将子の攻撃が入るはずであった。そこを綾香は、空いた片手で将子とのつっかえ棒として、ダメージを殺し、その間に、肘を叩き落した。
鎖骨は前からの衝撃には強いが、上からの衝撃にはもろい。ましてや、綾香の肘だ。折れるなという方が無理であり、ヒビで済んでいるのは、幸運としか言い様がない。
「肘か、警戒してなかったよ」
「別に他の技でもよかったんだけど、ちょっとだけ、本気出してあげたんだし、記念にね」
綾香とて、相手の骨にヒビを入れたのは生まれて初めてだったのだが、そこに恐怖はなかった。自分がかなり危険な人間なのだということを、綾香は再度確認した。
何故なら、将子の鎖骨にヒビを入れてなお、まだ戦いたいと思っているのだ。
さすがに無理よねえ?
無理はできるだろうが、今度は本当に折れてしまいかねないし、こんなところで選手生命を縮めるのを強制するわけにもいかない。何より、やはり負傷した身体では、本気が出せないだろう。
だが、将子はそれを簡単に裏切った。
「さあ、続きだ。まさか、ヒビぐらいで終了とはいわないだろ?」
「せ、先輩、さすがに無理っす!!」
あわてて、後輩達が将子の無茶を止めようとしたが、将子はそれを片手でさえぎった。
「私がこれから、何年格闘の世界にいるか知らないけど、その間に、相手の鎖骨にヒビ入れさせて、それでも平気で戦おうって相手に、もう一度会えると思うかい?」
綾香の顔を、挑発と思ったわけではないだろう。挑発されても、無理なものは無理なのだ。
……ああ、これも、そうだってわけね。
自分と同じ種類の人間だ。戦うのが、楽しくてしようがないのだ。綾香だって、少し前なら、怪我をすればエクストリームを辞退してもいいと思っていたが、最近は、それでも出たいと思い出した。
考えがかわってきたというよりは、本性を現してきたという方が正しいのだろう。
どこにでもいる、格闘バカの末路だ。
「さあ、再開だ。願わくば、もうちょっと、本気出して欲しいものだね」
勝てないとわかっていても、取り返しがつかなくなると思っていても、ここで後ろに下がれるぐらいなら、最初から怪物にケンカなど売ってこないのだ。
怪物にケンカを売った末路は、やはり取り返しがつかない、とも言えるが。
綾香の口元が、ニンマリと、釣りあがったように笑う。綺麗なのだが、それはもういつもの綾香ではなかった。
ここにいる誰もが、将子でさえ感じた。
目の前にいる少女は、少女の皮をかぶった肉食獣であるということを。
「いいわ、私が自分で出せる本気、出してあげる」
大きいスタンスで取っていた構えを、綾香はすっと縮める。腕が引かれ、守りが消える。
「久しぶりよ、本気出すのは」
「っ!!」
将子の身体が大きくのぞけっていた。
パンッ!!
思い出したように響いた音と共に、将子の鼻がつぶれて鼻血が飛び散る。
何をされたのか、わからないほどのジャブだった。しかも、威力は普通の選手のストレートをはるかに超す。
鼻の骨は……折れてない。
とっさに後ろにのぞけったのがよかったのだろう。将子の鼻の骨は折れていなかった。だが、脳震盪は残っている。
ズパパパンッ!!
「ぐぅっ!!」
あご、脇、膝裏に、素早く打撃が叩き込まれる。もうそれがパンチなのかキックなのかさえわからない。あごを狙った一撃を、何とかガードするのが精一杯だった。
まるで残像のように、綾香の身体がぶれる。
胴体の動きさえ捉えきれない、それは間違いなく怪物だった。
突きっ!
ドカッ!!
避けたと思った突きが、後ろから襲ってくる。鍛えに鍛えあげた首も、後ろから受けたラビットパンチに悲鳴をあげる。
何だ、この一方的な強さは?
自分の強さに、それなりに将子だって自信があった。だからこそ、綾香と戦いたいと思ったのだ。しかし、今、綾香にまったく手を出せない。
鎖骨をかばっている暇などない。一撃、倒せずとも、一撃を。
将子は、その決心だけして、綾香を追う。まるで止まることのない打撃を、それでもまだ受け続けている将子は、弱いわけではなかった。
むしろ、綾香が強すぎたのだ。
綾香の動きが、一瞬止まる。それはまるで罠のようだった。いや、それだけの動きの中、一箇所だけでも活路があれば、罠だろうと関係ない、それにすがるだけだった。
将子の身体が、弾丸、というより大砲の弾のように動いた。
捉えたっ!!
と思ったときには、綾香は横に飛んでいた。
ズバキッ!!
綾香の身体が、そのまま地面に降りることなく、将子の頭部にとび蹴りを入れていた。
それは、ワイヤーアクションを見るような動きだった。
綾香は将子の突撃を飛んで避けると、そのままコンクリートの壁を蹴り、反動で将子に飛び掛ったのだ。
将子の身体が、今度こそ意識を無くして、膝をつく。
「三角蹴りよ。一応、空手の秘技、かな?」
その離れ業をやった当の綾香は、そうやって少しおどけると、将子に背を向けた。奇跡でさえ、将子が今一度立ち上がることはない。綾香には、その確信がある。
「けっこう楽しかったわよ」
もうその言葉は、将子には聞こえなかった。
続く