試合場に向かう葵の心の中は、色々なもので満たされていた。
自分が想像できなかったほどに早く進む時間へのあせりや期待。試合を楽しもうと思う気持ちと、それを怖がる気持ちとの葛藤。
また、浩之に力を借りてもいいものかと思う気持ちと、でも、やはり浩之にそばにいて、自分を励まして欲しいという気持ち。
心地よくもあり、苦しくもある、心の動き。
ちらりと、葵は浩之の横顔を見た。
赤の他人は、やる気がないと評価する顔だが、葵にとってみれば、何よりも心強い顔。
一試合一試合、自分の緊張をほぐしてくれるごとに、浩之への思いは募るばかりだ。
それを葵の依存、と切り捨てる人もいるだろう。正直、葵だってそうではないのかと思っている。
ここは緊張で身体もうまく動かないような場面。それを、横にいるだけで解消して、むしろ力にしてくれる、特殊能力を持った人。
葵にとって、浩之は、言わば救世主だった。
浩之は、そんなことはないと言い切るだろうが、葵は自分の弱さをよくわかっている。それが解決難いものだということも含めて。
助けてくれた相手を、好きになって何が悪い。
それも、自分の人生で、おそらくかなり大切な部類に入るだろうときに、力をくれた救世主を、好きなのが何がおかしい。
そして、今だこの人は、私に力を与えてくれる。
きっと、私はセンパイがいるから、ここから逃げずに……ううん、試合を、心待ちにしていることができる。
緊張も、不安も、何もかもが気持ちいい。マイナスのものが、今私にとってはマイナスではない。むしろ、プラスに感じられる。
これも全て、私の前を歩く、この人のおかげ。
「どうだ、葵ちゃん」
「は、はいっ!」
浩之が振り返ったので、葵は慌てて返事をした。見とれていたなんてことを浩之が気付くわけもなかったのだが、葵にはそうは思えなかった。
「ん、緊張してるのか?」
少しだけ、葵を不安がらせない程度に、浩之の言葉に気遣いの色が混じる。それが、葵にはたまらなく心地よかった。
「大丈夫です。自分でも驚くほど、落ち着いていますから」
顔を赤くしてそんなことを言っても、説得力はないのだが、緊張でがちがちになっている様子はなかった。むしろ、楽しそうにさえ見えたので、浩之は顔が赤いのを気にしなかった。
「そうか。まあ、俺から見ても、今の葵ちゃんは十分落ち着いているしな」
「はい、センパイのおかげです」
「それは言わない約束だろ、葵ちゃん」
「あ……」
葵は、自分の心が、まったく落ち着いていないのに、顔を赤くした。
よく浩之は、葵と自分の間に気遣いは無用と言っている。そのくせ、浩之の方から気遣うことは多いのだし、不公平という意見もある。
「大丈夫か、葵ちゃん?」
「え……」
言葉を濁したのは、何も嘘をついているからではなかった。浩之が、心配そうに、葵の顔をのぞき込んだからだ。
心は、落ち着いていない。それは物凄く落ち着いていない。
心臓が、これから試合なのに大丈夫かと思うほどにばくばくと音をたてている。しかし、それがセンパイの所為、などとは口が裂けても言えず、さりとて顔を背けるには、浩之の位置はおいしすぎる。
時間にすれば、五秒もなかったのだが、その間は、葵にとっては拷問のようでもあり、天国のようなものでもあった。
ゴンッ!
結局、それを救った、または邪魔したのは、綾香の鉄拳だった。もちろん、葵が殴られたわけではない。
「まったく、これから試合の後輩の心拍数上げてどうするつもりよ。葵、こういうときは、殴って動かしなさいよ」
「え、さ、さすがにそれはちょっと……」
助かったとも思ったが、やはり少しもったいない気もした葵だったが、綾香に文句を言えるほどの度胸はなかった。
「ほっとくと、浩之はどこまでも増長するんだから」
ある意味そこだけはもっともな意見である。
「……あのなあ、後輩の心配をしている人間を捕まえて後ろから殴り倒すってのは、葵ちゃんに対するどういう嫌がらせだ?」
後頭部を殴られ、床に伏していた浩之が、ゆらりと立ち上がる。今朝から考えても、打たれ強くなっているのは葵の気のせいだろうか?
「かなり正々堂々じゃねえ嫌がらせだな、おい?」
「私は葵のためを思って、セクハラ親父を倒したんだけど?」
浩之が睨めば、それなりの眼力があるのだが、そんなものでひるむような綾香ではないのは、骨の髄まで浩之も葵も知っている。
「セクハラァ? 葵ちゃんの体調管理が、どうやったらセクハラになるんだ?」
「うーん、体調管理とか言うと、何かもっといかがわしいことに聞こえるわねえ」
フフフフフ、と笑う綾香に対して、浩之もハハハハハ、と乾いてはいるが、かなり険悪な笑い声をあげる。
二人のいつもながらの漫才に、横で見ていた坂下が、大きく肩をすくめた。
「……まあ、葵。しっかりやってきな。緊張もないみたいだし、いけそうじゃないか。だいたい、まだ決勝でも、本戦でもないんだろ? 勝ってきなって言う方が、いいかい?」
「はい、もちろんです」
試合がもっと先ならまだしも、試合直前でも、葵の強気は消えなかった。相手がかなり強いこともよくわかっているが、それが何故か重荷にならない。
試合前に、綾香に紹介されたことですら、すでに葵の中では何の重しにもならない。いや、丁度いい負荷となって、良い緊張を与えてくれる。
……もしかして、もう私はセンパイの助けを、必要としないのかもしれません。
浩之と綾香が、険悪なじゃれあいを続けているのを見ながら、葵はそんな思いにとらわれる。
始めのころなら、例え近くにいてくれても、浩之が自分のことだけを考えてくれなかったら、自分を保てないとも思っていた。
でも、今は、浩之が自分の方を向いていなくとも、平気だった。
あの身体と心の自由を奪う、怖い緊張は、ない。あっても、自分はその中で動けそうだと素直に思える。
所詮、そんな思いは自分の思い違いで、浩之がそこから一歩でも遠くに行けば、自分は昔の弱い自分になってしまうのではという不安は、がんばれば消せるような気もする。
しかし、葵はそれ以上、がんばろうとは思わなかった。
近くに、浩之がいてくれることが、いいことであっても、悪いことでは少しもないのだし。それでいいなら、そのままでいい、と考えた。
例え、その目が、私に向いていないことがわかっていても。
まだ、センパイが私の近くにいてくれるのなら、その方が、センパイが近くにいないことよりも、何倍、何十倍も。
嬉しいことなのだから。
葵は、嬉しそうに、浩之を見ていた。二人がじゃれあっていれば、見とれても、邪魔は入らないのだから。
続く