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最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(121)

 

「くそっ」

 浩之は珍しく悪態をついていた。日頃、飄々としているだけに、その迫力はなかなかのものなのだが、横にいるのは綾香と坂下なので、それぐらいで驚いたりはしない。

「落ち着きなよ、藤田。まだ試合は始まったばかりだろ」

「それはそうだが……葵ちゃんは、勝負かけたのに、逃げられたのはやっぱり悔しいだろ」

 組み技系の選手に対して、懐に潜り込む、ようするに接近するのは、打撃格闘家にとっては冒険だ。どうしても、距離が近いと組み技系の方が有利になるからだ。

 葵が一体何をして、どうやってチャンスを作ろうとしていたのか、浩之にもわかっている。理にはかなっているのだ。それも、十分理解している。

 だが、その点を差し引いても、やはりそれは賭けだった。

 試合早々に突っ込むという作戦は、相手の実力を測るのが難しく、やるべき作戦ではない。しかし、それは相手も同じこと、そう考えて葵は飛び込んだのだろう。

 それにはかなりの勇気がいったはずだ。だが、そうやって攻めたにもかかわらず、葵の掌打は避けられた。

 もう一度チャンスが来るのはいつかわからない。一度のチャンスをものにするのに失敗すれば、それで終わりの可能性もあるのだ。

 はっきり言って、かなりの勝機だった。それをつかみそこねた葵が悪いのではない。ピンチを、切り抜けた篠田選手が強いのだ。

 しかし、悔しさは篠田選手が強かろうが弱かろうが、関係ない。

 後数センチ、あごが手前にあれば、葵の掌打は決まっていたろう。オープニングヒット、それも十分に威力をのせたそれをうければ、勝敗は決まっていた。

「ま、葵も悪くなかったんだけどね」

 相手の上体を起こすようにコンビネーションを組むのは、アマレスのような腰を落とす格闘技に対しては有効な方法だ。教えたわけでもないのに、それが出せるというのは、葵の今までの練習は無駄ではなかったということだ。

「これで決めさせてくれる相手じゃないってのは、浩之もわかってるでしょ?」

「……わかってても、悔しいものは悔しいさ」

「もう、葵に対してはとことん甘いんだから」

 しょうがないなあ、と綾香はため息をついた。嫉妬の炎に心をこがして、ここで浩之をボコボコにしてもいいのだが、浩之にやましい気持ちがないのもわかっているので、それは許してやることにした。

 綾香にとっても、大切な後輩だ。浩之の気持ちがわからないでもない。

 それに、葵はさっきの攻撃が失敗に終わったことを、何とも思っていないだろう。顔を見れば綾香にはわかる。

 やっぱり、これぐらいでは決められないか。

 表情を厳しくもしていない葵を見れば、それはすぐにわかる話だ。確かに、危険な状況に足を踏み入れたにも関わらず、相手をつかまえきれなかったのは、嬉しい話ではないし、実際捉まえるつもりで攻撃したのだが、それでも、避けられる可能性は高かった。

 簡単に勝たせてくれるような選手は、ここにはいない。

 もちろん、浩之もそんなことはわかっているのだが、自分が戦っているときよりも、葵が戦っているときの方が決められなかった悔しさは大きいような気がするので、不思議なものだ。

 浩之の悪態も、葵には届いていた。自分のことをそこまで考えてくれる浩之の態度に、顔がほころびそうになるのを、試合中だと思ってひきしめる。

 篠田選手との距離は遠い。組み技どころか、打撃さえ届かない距離だが、葵は今はこの距離を保っている。

 奇襲が通じなかった以上、次は正攻法で攻めねばならないのだが、正直、相手の出方を知りたかった。

 この選択肢が正しいかどうかまでは、葵にもさすがにわからない。

 打撃系の選手としては、打って打って押し切る戦い方が、一番正しいようにも思える。組み技系の選手がきっかけをつかめないほどに連打して、押し切れば、何とか勝てるような気さえする。

 相手は打撃専門ではないのだ。打撃のみを鍛えてきた人間の打撃を、全て受けきるというのは、かなり難しいだろう。

 反対に、多少のダメージなど気にせずに掴まれると、これはまた困る。打撃の連打というのは、得てして一撃のダメージが減少する。そこを狙われると、ひとたまりもない。

 要はそのさじ加減なのだが、残念ながら、葵は連打を狙おうとは思わなかった。

 もちろん、自分の小さい身体なら、回転数を上げるのはそんなに難しい話ではないのはわかっている。だが、それで勝てるとは、到底思えなかったのだ。

 連打中に下に逃げられたとき、葵に攻撃の方法がないのがその理由だった。

 上からの手刀が、連打には入れにくいのもあるし、キックもそんな至近距離では、ダメージなどないに等しいだろう。

 しゃがまれて接近されるのが、葵にとっては一番やっかいなのだ。

 色々対策はねっているのだが、それを試したことは数回しかないし、いかにも心細い。

 それならば、実際の総合力で戦った方がいい、と葵は思ったのだ。だから、相手の出方を待っている。

 浩之や綾香が相手をしてくれたので、トリッキーなフェイントにだって反応する自信があった。そして、処理しきれば、次は自分のチャンスとなる。

 手は、出さない。打撃の引きにあわせられたら、対応できないかもしれない。まずは、相手の動きに自分を合わせられるようにならないと。

 しかし、葵の考えがわかっているのか、篠田選手も、うかつに距離をつめてきたりはしなかった。

 距離を取ったまま、腰を落として、一瞬飛び込むふりをするだけで、仕掛けてこない。

 カウンターを恐れられているのだろう、と葵はあたりをつけた。将子相手には、疲労というハンデをもらったということもあるが、カウンター合戦で最終的には勝った。その結果は、篠田選手の精神に、少なからず警戒を生まれさせるには十分だったということだ。

 ならば、手は出さないけれど。

 ススッと、葵は距離をつめた。ゆっくり、お互いに横にまわりながらだが、少しずつ、着実に距離をつめていく。

 こちらからはしかけるつもりはない。しかし、こうやって少しずつプレッシャーをかければ、相手は動かざるを得ない。

 もちろん、うかつに距離をつめすぎたりはしない。一定の距離以上は、近づくのは本気で攻めるときだけだ。

 葵が、また少し、距離をつめる。それに合わせて、篠田選手の顔が険しくなる。何か罠があると思っているのか、葵に気圧されているのか……

 正直、すでに葵は手を出してしまいたい距離だった。クリーンヒットはできなくとも、相手を下がらせるだけの打撃の放てる距離だ。

 だが、それでも葵は我慢した。相手が仕掛けるときを、辛抱強く、待つ。

 そして、篠田選手も、守ってばかりはいなかった。

 ダンッ、と踏み込みのような激しい音を立てて、篠田選手の身体が前に出ていた。

 葵の呼吸を読んでいたのだろう、丁度葵が息を吐いたときを狙って、篠田選手は飛び込んだ。とっさに、葵の反応がほんのわずか、遅れる。

 でも……間に合う!

 葵は腰を落としていた。下にさえ入られなければ、そう簡単には倒されない。下にもぐられるのが嫌ならば、自分から下に入ってしまえばいいのだ。

 鍛えに鍛えた足腰が、葵の小さな身体を、腰を落とした状態でも通常の体勢と何らかわらないほどに、支える。

 これならば、耐えれる。

 が、葵の思惑は外れた。

 篠田選手の身体は、葵の下にもぐりこむことなく、葵の上に覆いかぶさっていた。

 

続く

 

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