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最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(122)

 

 葵は、とっさに腰を落としたが、手はつかなかった。

 自分の下に入ってくると思った篠田選手の身体が、予想に反して、上にかぶさっていた。瞬間に判断して完全に腰を落とさなかったのは、葵にしては上出来な判断だった。

 これぐらい予測がついたはずなのに……

 篠田選手の腕が、完全に葵の首を捕らえていた。

 タックルを狙うと見せかけて、相手が腰を落としたところを、上から捕まえる。レスリングで言うところの「がぶり」というテクニックだ。

 葵も、それぐらいの研究はしてきた。しかも、篠田選手がまず間違いなくレスリングがベースであるのは分かり切っていたというのに、これを予想できなかったのは、かなりの痛手だった。

 ググッ、と上から、篠田選手の体重が葵の頭の後ろにかかる。

 それを、葵は何とか脚を開いて踏ん張る。形は多少違えど、一試合目で吉祥寺選手が相手のタックルを耐えるのを参考にしたのだ。

 しかし、今回は上からだ。このままでは、押しつぶされるのは目に見えていた。

 しかも、ギリギリと首を篠田選手に絞められている。かなり不利な状況、いいや、むしろ危機と言っていい状況だった。

 のどの方に腕が入るのは、あごを引いていたおかげで免れているが、その細い腕からは信じられないぐらいの力で、首をてこの原理で締め上げられるのは、かなり厳しい。

 まだ、両手がフリーなのが不幸中の幸いだった。これで片手でも取られていたら、反撃はほぼ無理であったろう。

 ……いや、今でさえ、普通に見れば絶望的な状況なのはわかっている。

 だが、まだそこには打撃を放つ隙がある。問題は、その打撃で篠田選手を振り払うことができるかどうかだ。

 威力には、自信はあるが、しかし、今は体勢が悪い。腰を曲げられない状況で、どれほどの力が出せるものか……

「葵ちゃんっ!」

 こんな状況なのに、浩之の必死の声援が、耳に届く。

 自分はこんなときでも、けっこう冷静ではないか。浩之の声は、葵にそんなことを自覚させた。そして、それこそが、今一番重要だった。

 もし、完璧に捕まえているのなら、こんなに自分が耐えられるわけがないのだ。

 つまり、篠田選手は確かに葵の裏をかいて、がぶりを成功させているが、まだかかりが浅いということなのだ。

 もし、これが頭ではなく、胴体を取られていたら、その驚異的なブリッジで後ろに投げられていたところだろう。それで勝負がつくかどうかはやってみなくてはわからないが、さらに不利な状況になることだけは確かだ。

 このまま捕まっていれば、それはスタミナは削られているけれど……私なら、耐えられる。

 私がしなくてはいけないのは……篠田選手が、違う動きを見せたとき。

 横にひねろうとして、身体を離してきたなら、そこでできる隙に、腰を入れたパンチをみぞおちに入れる。

 葵の身体が下になっているからこそ、普通は入れることのできない急所に、拳を入れることができる。

 しかし、それは相手もわかっているから、ここは……

 篠田選手の動きは素早かった。浩之の声援が葵に聞こえてから、ほんの数秒後には、この体勢では葵をしとめきれないと判断して、動いていたのだ。

 自分も脚を広げて、上から押しつぶすような格好であったのを、素早くたたんで、今度は自分の下半身を葵の下にもぐりこませようとした。

 首のかかりが浅いのを、自信のある腕のフックの力にまかせて、自分の体重をおもりにして、葵を首から下に引きずり落とそうと考えたのだ。

 この動きは、組み技としてある意味完成されている。最終的にフックが外れなければ、首を完璧に固めて、フロントギロチンチョークにもっていけるし、もし首が外れたとしても、おそらく相手を倒すことには成功して、しかも相手を脚の間に挟んだ、ガードポジションを取ることができる。どちらにしろ、かなり有利に試合を進められるだろう。

 だが、葵はそれを読んでいた。否、望んでいた。

 相手が脚を前に出すのに合わせて、葵は広げていた右足を篠田選手の両脚の間に滑り込ませ、固めた。

 そのままでは、葵の首がどうにかなってしまうかもしれない体勢だったが、葵の動きは、素早かった。

 ドカッ!!

 篠田選手の身体が、横にぶれる。それと同時に、フックの甘くなった腕から、葵は首を抜いた。その一瞬のチャンスで、葵は絶望的な状況を打破したのだ。

 脚の位置は十分、葵は、素早く返しの右フックを放っていたが、これを篠田選手は斜め後ろに身体をひねりながら倒れ、これを避ける。

 そのまま、篠田選手は器用に腕をつくと、その跳ね返る勢いで、間をおかずに、葵の前に出た右脚を取ろうと素早く振り向こうとしたが、葵の左拳がすでに構えられているのを見て、あわててガードをした。

 ドンッ!!

 腰を浮かすようにして、篠田選手は葵の左フックの威力を使って距離を取った。

 そのまま葵は追撃をしようかと思ったが、篠田選手がまた素早く腰を落とすのを見て、自分も距離を取る。

 そのまま突っ込んでいれば、今度こそタックルに捕らえられていたろう。それほどに、篠田選手の逃げから攻めへの移行が早かったのだ。

「よしっ!」

 篠田選手がかなり有利な状況であったのから、逃れたことによって、観客が一斉にわいたが、葵の耳は、その中で、浩之の嬉しそうな声をちゃんと聞き分けていた。

 首が……少し痛いかも知れない。

 もちろん、そんなそぶりを見せる葵ではないが、痛いことには変わりない。

 限界に近い体勢まで持っていったのだ。痛いぐらいで済んでいるのはむしろ幸運かもしれない。

 打撃が来ようと耐えるつもりであった篠田選手のボディーを左フックで打って、葵は逃れたのだ。

 葵は、何とか打撃を打てるほどに腰の回転を得られる体勢に持っていって、左フックを放った。

 しかし、打撃用に考えて鍛えてあるだろう篠田選手のボディーの装甲を貫くだけのパンチを打てるほどに腰の回転は得られなかった。

 しかし、いつもとは状況が違った。篠田選手は、フックに力を入れることに集中しすぎて、脇が開いていたのだ。

 もちろん、集中したところで、しめたままというのは難しいし、下に入っている葵とすれば、狙い易い位置だった。

 脇は、どんなに鍛えても、筋肉がほとんど付かないのだ。そこに威力は弱まっても、威力の高い葵のパンチが入れば、腕の力が一瞬抜けるのは仕方ない。

 しかも、攻撃の方法を転じようとした一瞬の、どうしても隙の生まれる瞬間にあわせられたのだ。それは、篠田選手の根性云々を攻めるよりも、篠田選手の動きを短い時間で読んで、さらに実行してきた葵をほめるべきだろう。

 今回も、痛み分けか。

 葵は心の中で苦々しく笑った。試合中に無意味に笑うことはないが、心の中まで押さえられるものではない。

 首のダメージは、後までけっこうひくだろう。もう一度捕まえられたときに、耐える筋力を思うように出せない可能性もある。

 しかし、篠田選手の右脇に入ったパンチのダメージもそう簡単に抜けるものではない。下手をすれば骨の折れる位置だ。

 頭でわかっていても、やってみなければ、わからないことがある。

 葵は、自称頭のよくない頭で考えても、やはりわからなかったことは、結局、その身で体験してみないと、わからないというのを、改めて確認した。

 篠田選手は、強い、と。

 

続く

 

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