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最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(123)

 

 葵は、距離を取ってなお、油断なく構えてゆっくりと篠田選手の左側に回り込む。

 篠田選手も、その葵の動きに合わせて、ずっずっ、とすり足で左にまわる。

 お互いの距離は少しも縮まらないが、それでも、肩で、呼吸で、脚で、お互いにフェイントをかけあっていた。

 だが、どちらもわかっている。先に手を出した方が不利だということを。

 一度相手の動きを見て、さらにそれを回避されたという思いがどちらにもあった。そのまま真っ直ぐに攻めたところで、結果は何度やってもかわらないだろうことも予想できた。

 いや、手の内を見せれば見せるほど、相手に動きを読まれるのではないか、という危惧さえあった。

 休んでいるわけではない。むしろ、二人とも攻めたいのだ。両方にダメージがあるときだからこそ、自分でその主導権を握っておきたい。しかし、並の動きでは、相手は避ける。

 膠着状態になるのも、仕方のない話だった。

 であれば、この間に体力を回復しようと思っているのは、何も選手だけではない。

 浩之も、膠着状態に入った二人を見て、やっと大きく息を吐いた。

「あー、緊張したぜ」

 浩之の心臓はバクバクと音を立てている。葵ががぶりで首を取られたときなど、心臓が止まるのではないかと思ったほどだ。

「自分の試合だと、緊張しないっての?」

 綾香に言わせても、緊張する浩之というのは、らしくない。とは言え、半分憎まれ口が入っているとしても、葵のピンチに、自分の試合よりも緊張したのは確かなのだ。

「自分ならやられるのは自分だけだろ。葵ちゃんの試合だと、心配で心配で」

「ふーん」

 顔は全然心配そうにしているように見えなかったのだが、浩之が心から葵の心配をしているのは、短いつきあいでもわかる。

 少し綾香は嫉妬の炎が自分の身を焼くのを感じたが、試合をしている葵のために、殴るのはやめておいた。

「しかし、ちょっとやばかったんじゃないのか、さっきのは?」

「そうねえ。ちゃんと葵が対応できなかったのが原因だけど、危なかったわね」

 その後、何とか逃れたからよかったものの、あそこで篠田選手の腕の力がゆるまなかったら、負けていたのは葵だろう。

 もちろん、その前の攻防では、後数センチ篠田選手が避けるのが遅れていれば、試合が決まったのだから、たら、れば、などという言葉など、あってないようなものだ。

「しかし、ボディーなのによく効いたよな」

「脇の後ろの方を狙ったからね。あれはなかなか耐えるってのは難しいわよ」

 葵が逃げるために打った場所は、脇と言っても、胸の後ろ辺りだった。確かにあばらはあるが、だからと言って筋肉がつきやすい場所ではなく、ここを打たれれば、痛みに腕がゆるむのも仕方ない話だ。

 丁度、脇がくびれている部分。肉のつきにくい部分を葵の拳で殴られたのだ。今平然と動いている方がどうかしている。

 いや、おそらくは、平然とはしているけど、ダメージはあるわね。

 綾香の鋭い目は、葵と、篠田選手のダメージをちゃんと目視できていた。葵もダメージを負っているが、篠田選手も負けないほどにダメージがあるのだ。

 でなければ、篠田選手はむしろもっと攻めているだろう。素早いタックルに自信があるのなら、そのタックルを打撃で捉らえにくい、そして捉らえたとしても、前進することによって打点がずれるので、威力が殺されることを盾に、がむしゃらに攻めた方がいいとさえ思う。

 もっとも、葵はそれぐらいでは対応するだろう。もうがぶりも効かない。フェイントを織り交ぜてならともかく、そんなことをさっきのように素でやれば、葵のアッパーがあごを捉えるだろう。タックルからがぶりへの移行中は、打撃に対して完全に無防備と言ってもいいのだ。

 葵は、心情的には攻めたいが、攻めはしない。それが理にかなっているからだ。そして、今の葵なら、それをちゃんとわかって、今は守りに……

 つくとしたら、面白くない話よね。

 そう綾香が思うか思わないと同時に、葵の構えがかわった。

 さっきまでは守りを重点に置いた、左腕を伸ばした左半身の状態であったのに、左の腕をかなりひきつけたのだ。

 ボクシング、とまではいわないが、完璧に打撃で攻撃する構えを取る。

 少し落とし気味にしていた腰が、浮き、ステップをふんでリズムを取り出す。

 ここでボクサースタイル?

 試合見ている中で、それなりに格闘に詳しい者は、皆不思議に思ったろう。いや、目の前でそれを見ている篠田選手こそ、一番不思議に思ったに違いない。

 篠田選手はほぼ完全な組み技系の選手だ。相手が打撃戦を狙うなら、間違いなくタックルだけを狙って、まず相手を仕留められるだろう。

 組み付き、寝技ありの状態で、ボクサースタイルは、あまりにも無防備。ボクサーが出てきてさえ、なかなかそんなことはしない。

 それを、レスリングスタイルの相手に対して行う意味がわからなかった。

「フェイントか?」

 浩之は、しごくもっともな意見を言った。篠田選手を誘うために、わざわざこんな構えを取ったのでは、と思ったのだ。

 葵なら、その格好からも、すぐに反応できるだろう、と浩之は考えている。しかし、わざわざ相手を誘うためとは言え、不利な格好をするとは……

「それぐらいのフェイントで、相手が動いてくれるならいいけど」

「……まあ、俺なら攻めるけどな。不利なのは事実だろ?」

 何かある、と攻めてこない可能性もある。時間稼ぎなら、むしろ正しい手なのかもしれない。だが、今の葵に時間稼ぎなど必要ないし、そもそも、その態勢から、通常の構えよりもタックルに有利な攻撃、というのは思いつかない。

 しかし、葵がするからには、何かあると思ってもいいのは確か。

 ……ただ、相手を誘うためにやってるだけ、という可能性を否定できないのが、葵のまだまだ成長途上の証拠なのかもしれない。

 だが、そんな思惑とは別に、篠田選手はさっきよりも距離を取っていた。

 何かある、と判断したわけだが、そうでなくとも、ここで無理に攻めることはしないだろう。何もなければいいが、何かあったとき、それを予測できずに受けるというのは、大きな致命打になる可能性が高すぎる。

 もともと、組み技系の選手は、速攻など狙っていないのだ。できた隙をちゃんと拾って勝つ、それが正しい戦い方だ。

 打撃なら、まぐれ当たりもあるかもしれない。それだってかなり低いことだが、組み技になると、しかもそれが寝技、グラウンドの攻防になると、まぐれなど入ってくる隙がない。

 相手の出方が見えないときに、しかけるのはマイナスでしかない。判断は誰が見ても正しいと言えるものだ。

 だが、そんな篠田選手の思惑を無視するように、葵はステップをふみながら、少しずつ距離をつめていく。まるで、打撃系の選手を相手にしているかのような、組み技を度外視した動きだ。

 篠田選手は、一瞬手を出そうかと思って、しかし躊躇してまた距離を取る。ここまで見え見えの誘いに、乗るとは思えなかった。

 しかし、それは、少しだけ違った。

 その下がる、一瞬の隙をついて、葵はインステップして、篠田選手に向かって飛び込んでいた。

 

続く

 

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