葵は、距離を取ってなお、油断なく構えてゆっくりと篠田選手の左側に回り込む。
篠田選手も、その葵の動きに合わせて、ずっずっ、とすり足で左にまわる。
お互いの距離は少しも縮まらないが、それでも、肩で、呼吸で、脚で、お互いにフェイントをかけあっていた。
だが、どちらもわかっている。先に手を出した方が不利だということを。
一度相手の動きを見て、さらにそれを回避されたという思いがどちらにもあった。そのまま真っ直ぐに攻めたところで、結果は何度やってもかわらないだろうことも予想できた。
いや、手の内を見せれば見せるほど、相手に動きを読まれるのではないか、という危惧さえあった。
休んでいるわけではない。むしろ、二人とも攻めたいのだ。両方にダメージがあるときだからこそ、自分でその主導権を握っておきたい。しかし、並の動きでは、相手は避ける。
膠着状態になるのも、仕方のない話だった。
であれば、この間に体力を回復しようと思っているのは、何も選手だけではない。
浩之も、膠着状態に入った二人を見て、やっと大きく息を吐いた。
「あー、緊張したぜ」
浩之の心臓はバクバクと音を立てている。葵ががぶりで首を取られたときなど、心臓が止まるのではないかと思ったほどだ。
「自分の試合だと、緊張しないっての?」
綾香に言わせても、緊張する浩之というのは、らしくない。とは言え、半分憎まれ口が入っているとしても、葵のピンチに、自分の試合よりも緊張したのは確かなのだ。
「自分ならやられるのは自分だけだろ。葵ちゃんの試合だと、心配で心配で」
「ふーん」
顔は全然心配そうにしているように見えなかったのだが、浩之が心から葵の心配をしているのは、短いつきあいでもわかる。
少し綾香は嫉妬の炎が自分の身を焼くのを感じたが、試合をしている葵のために、殴るのはやめておいた。
「しかし、ちょっとやばかったんじゃないのか、さっきのは?」
「そうねえ。ちゃんと葵が対応できなかったのが原因だけど、危なかったわね」
その後、何とか逃れたからよかったものの、あそこで篠田選手の腕の力がゆるまなかったら、負けていたのは葵だろう。
もちろん、その前の攻防では、後数センチ篠田選手が避けるのが遅れていれば、試合が決まったのだから、たら、れば、などという言葉など、あってないようなものだ。
「しかし、ボディーなのによく効いたよな」
「脇の後ろの方を狙ったからね。あれはなかなか耐えるってのは難しいわよ」
葵が逃げるために打った場所は、脇と言っても、胸の後ろ辺りだった。確かにあばらはあるが、だからと言って筋肉がつきやすい場所ではなく、ここを打たれれば、痛みに腕がゆるむのも仕方ない話だ。
丁度、脇がくびれている部分。肉のつきにくい部分を葵の拳で殴られたのだ。今平然と動いている方がどうかしている。
いや、おそらくは、平然とはしているけど、ダメージはあるわね。
綾香の鋭い目は、葵と、篠田選手のダメージをちゃんと目視できていた。葵もダメージを負っているが、篠田選手も負けないほどにダメージがあるのだ。
でなければ、篠田選手はむしろもっと攻めているだろう。素早いタックルに自信があるのなら、そのタックルを打撃で捉らえにくい、そして捉らえたとしても、前進することによって打点がずれるので、威力が殺されることを盾に、がむしゃらに攻めた方がいいとさえ思う。
もっとも、葵はそれぐらいでは対応するだろう。もうがぶりも効かない。フェイントを織り交ぜてならともかく、そんなことをさっきのように素でやれば、葵のアッパーがあごを捉えるだろう。タックルからがぶりへの移行中は、打撃に対して完全に無防備と言ってもいいのだ。
葵は、心情的には攻めたいが、攻めはしない。それが理にかなっているからだ。そして、今の葵なら、それをちゃんとわかって、今は守りに……
つくとしたら、面白くない話よね。
そう綾香が思うか思わないと同時に、葵の構えがかわった。
さっきまでは守りを重点に置いた、左腕を伸ばした左半身の状態であったのに、左の腕をかなりひきつけたのだ。
ボクシング、とまではいわないが、完璧に打撃で攻撃する構えを取る。
少し落とし気味にしていた腰が、浮き、ステップをふんでリズムを取り出す。
ここでボクサースタイル?
試合見ている中で、それなりに格闘に詳しい者は、皆不思議に思ったろう。いや、目の前でそれを見ている篠田選手こそ、一番不思議に思ったに違いない。
篠田選手はほぼ完全な組み技系の選手だ。相手が打撃戦を狙うなら、間違いなくタックルだけを狙って、まず相手を仕留められるだろう。
組み付き、寝技ありの状態で、ボクサースタイルは、あまりにも無防備。ボクサーが出てきてさえ、なかなかそんなことはしない。
それを、レスリングスタイルの相手に対して行う意味がわからなかった。
「フェイントか?」
浩之は、しごくもっともな意見を言った。篠田選手を誘うために、わざわざこんな構えを取ったのでは、と思ったのだ。
葵なら、その格好からも、すぐに反応できるだろう、と浩之は考えている。しかし、わざわざ相手を誘うためとは言え、不利な格好をするとは……
「それぐらいのフェイントで、相手が動いてくれるならいいけど」
「……まあ、俺なら攻めるけどな。不利なのは事実だろ?」
何かある、と攻めてこない可能性もある。時間稼ぎなら、むしろ正しい手なのかもしれない。だが、今の葵に時間稼ぎなど必要ないし、そもそも、その態勢から、通常の構えよりもタックルに有利な攻撃、というのは思いつかない。
しかし、葵がするからには、何かあると思ってもいいのは確か。
……ただ、相手を誘うためにやってるだけ、という可能性を否定できないのが、葵のまだまだ成長途上の証拠なのかもしれない。
だが、そんな思惑とは別に、篠田選手はさっきよりも距離を取っていた。
何かある、と判断したわけだが、そうでなくとも、ここで無理に攻めることはしないだろう。何もなければいいが、何かあったとき、それを予測できずに受けるというのは、大きな致命打になる可能性が高すぎる。
もともと、組み技系の選手は、速攻など狙っていないのだ。できた隙をちゃんと拾って勝つ、それが正しい戦い方だ。
打撃なら、まぐれ当たりもあるかもしれない。それだってかなり低いことだが、組み技になると、しかもそれが寝技、グラウンドの攻防になると、まぐれなど入ってくる隙がない。
相手の出方が見えないときに、しかけるのはマイナスでしかない。判断は誰が見ても正しいと言えるものだ。
だが、そんな篠田選手の思惑を無視するように、葵はステップをふみながら、少しずつ距離をつめていく。まるで、打撃系の選手を相手にしているかのような、組み技を度外視した動きだ。
篠田選手は、一瞬手を出そうかと思って、しかし躊躇してまた距離を取る。ここまで見え見えの誘いに、乗るとは思えなかった。
しかし、それは、少しだけ違った。
その下がる、一瞬の隙をついて、葵はインステップして、篠田選手に向かって飛び込んでいた。
続く