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最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(124)

 

 フェイントも、意識している、というだけで、普通の動きと何ら違わない。

 意識のないフェイントほど、危険なものはないのだ。

 それをフェイントと読んで、それをまったくの無視を決め込んで飛び込まれれば、むしろ危険でさえあった。

 葵の飛び込みは、まさにそれだった。

 フェイント一つで勝敗は決まる。そして、それは、攻めも、守りも同じこと。

 篠田選手が、腰を落とすよりも速く、葵の身体は、篠田選手を射程に捉えていた。

 隙をつかれた篠田選手の身体が、とっさに後ろに逃れようと胸をそらす。

 シュピッ!!

 風を切るアッパーを、篠田選手は後ろにのぞけって避けた。

 そして、二度、三度とたたらをふむと、そのままマットの上に尻餅をついた。一度目のように、華麗に肩で回転して立ち上がる、などできなかった。

 立ち上がろうとして、ついた篠田選手の腕が、がくっ、とくずれる。

 避けた、と思った葵の拳が、あご先をかすめていたのだ。それは脚だけでなく、腕にまで機能を満足に行かせなくしていた。

 葵は、すぐに飛び込もうとして、一歩踏みだし、しかし、追撃しなかった。

 篠田選手は仰向けの状態で、ひじをついて、顔だけをあげていたが、まるで誘うように股を開け、葵の動きを見ている。

 ダメージはともかく、二人がにらみ合う格好になり、そのまま二人は動きを止めた。篠田選手は立ち上がるわけでもなく、葵は攻めるでもない。

「ワンッ、ツー……」

 審判がカウントを数え出すが、篠田選手は、ダメージを最大限まで消そうとしてか、すぐに立ち上がろうとはしなかった。

 浩之も、この動きなき攻防を、苦々しく見ていた。

 レスリングだけではない、エクストリームの攻防として、篠田選手はうまかったのだ。だから、葵は攻めることができなかった。

 倒れた相手への打撃があればともかく、一度離れた仰向けの相手に近づくのはあまりうまい手ではない。

 上からのしかかるしか方法がないのだ。そうすれば、股を開いて待つ相手の脚に胴体をとられてしまう。

 ガードポジションを取られた場合、むしろ上の方が不利なのだ。一度、葵が将子選手をその方法で封じたように、今攻めても、すぐに耐えられるのがオチだ。それどころか、おいしすぎる逆転のチャンスを渡すことになりかねない。

 葵は、結局は打撃専門の格闘家だ。組み技を、しかも寝た状態での組み技、グラウンドを専門とする選手の土俵で戦うメリットなどない。

 打撃で、決めねばならないのだ。

 その意思表示のように、葵は構えを完全打撃系に変えたのだ。そこからならば、相手が自分を掴むよりも速く、相手を殴り倒せる。

 自信と、覚悟。

 それは、確かに葵に力を与えた。その決意は、半分は成功して、葵の刃の切っ先は、篠田選手のあごを捉えたのだ。

 だが、その感触に、葵はぞっとした。

 わずかな当りであったのに、その感触の重かったことと言ったら、胴体を殴るような感触だった。

 しかも、合わせるように後ろに逃げられた。ダメージは、見た目よりも当てることができていない。

 首の、強さ。それが葵のアッパーを防いだものの正体だった。

 ブリッジを基本とするレスリングをやっている人間の首の力は、驚くべきものだ。

 首の力のない素人が頭をついてのブリッジをするときは、脳天を支点にして、首が垂直になるように立てる。

 だが、レスリングの選手は、額を床につけてブリッジをして、さらに腹の上に人を、凄い者になれば、二人、三人と乗せるのだ。

 その首の強さが、葵の打撃の衝撃を、脳に伝えなかったのだ。いくらスピード重視のアッパーだったからと言って、いや、スピード重視だったからこそ、普通は耐えられるものではないのだ。

 かすりでもしたら、勝てると思っていた。

 葵の正直な気持ちだった。自分の打撃が、あご先などというピンポイントにかすれば、絶対に相手は立てないと思っていた。

 いや、顔面にもろに当たった方が、まだ耐えられるというものだ。あごの先にかすると、てこの原理で、頭はよく揺れるのだ。

「シックス、セブン……」

 何事もなかったかのように、篠田選手は立ち上がった。信じられないことだが、さっきのアッパーのダメージが残っていないように、葵には見えた。

「やれるかい?」

「はい」

 審判の声に、短く、しかし、はっきりと篠田選手は答える。その声に疲労もダメージも見ることはできない。

 葵は、その声にぞっとした。

 篠田選手の内に潜む、何か怖いものが、見えたような気がしたのだ。それは、むしろ「見えない」ものなのかもしれない。

 底が、見えない。それは、強者の条件のようなものだ。

 倒せないのではないのか、という恐怖が、また葵の胸のうちに生まれる。自分のクリーンヒットを当てても、相手を倒せないのではないのか。

 この場合は、あれ以上どうやって当てればよいのかという意味だが、同じことだ。

 私に、できるだろうか? 私に、この人が倒せるだろうか?

 葵の心は弱く、相手が立ち上がってくるだけで、その身をちぢ込ませる。

 それは、どうしようもない、葵の性格であった。ただ真っ直ぐで、目的に向かって一直線に進むしかできない性格なのに、酷く怖がり。

 真っ直ぐ進むのは、それ以外を考えて気をそらせると、失敗が怖いから。

 戦って、負けるのが怖いから、脚はすくむ。その場に立ちさえしなければ、負けることはないのに、と心の出す弱音が、葵の脚をにぶらせる。

 それに、必要なのは、ただ励まして、自分を強いと言ってくれる人。

 そして、昔と違う、自分の中の「これ」。

 こんなに、篠田選手のことを怖いと思っている自分がいるのに。

 胸が、熱くなってくる。

 その気持ちをうまく表わすには、葵の語彙では不足するが、何に一番近いかと言えば、興奮、それに一番近い。でも、興奮だけではない、それが、楽しくて仕方ない。

 葵の身体が、心が、格闘家である葵が、それを歓喜していた。

 この人は、強いんだ。

 すっと、篠田選手が、今度こそ油断なく、腰を落とす。もう、葵につけいる隙を見せることはない。そう言いたげだった。

 それを攻略する方法を、葵はまったくと言っていいほど思いつかない。それは決して喜ぶべきことではないのに。

 葵の身体は、その興奮を身体で示すように、走り出していた。

 

続く

 

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