フェイントも、意識している、というだけで、普通の動きと何ら違わない。
意識のないフェイントほど、危険なものはないのだ。
それをフェイントと読んで、それをまったくの無視を決め込んで飛び込まれれば、むしろ危険でさえあった。
葵の飛び込みは、まさにそれだった。
フェイント一つで勝敗は決まる。そして、それは、攻めも、守りも同じこと。
篠田選手が、腰を落とすよりも速く、葵の身体は、篠田選手を射程に捉えていた。
隙をつかれた篠田選手の身体が、とっさに後ろに逃れようと胸をそらす。
シュピッ!!
風を切るアッパーを、篠田選手は後ろにのぞけって避けた。
そして、二度、三度とたたらをふむと、そのままマットの上に尻餅をついた。一度目のように、華麗に肩で回転して立ち上がる、などできなかった。
立ち上がろうとして、ついた篠田選手の腕が、がくっ、とくずれる。
避けた、と思った葵の拳が、あご先をかすめていたのだ。それは脚だけでなく、腕にまで機能を満足に行かせなくしていた。
葵は、すぐに飛び込もうとして、一歩踏みだし、しかし、追撃しなかった。
篠田選手は仰向けの状態で、ひじをついて、顔だけをあげていたが、まるで誘うように股を開け、葵の動きを見ている。
ダメージはともかく、二人がにらみ合う格好になり、そのまま二人は動きを止めた。篠田選手は立ち上がるわけでもなく、葵は攻めるでもない。
「ワンッ、ツー……」
審判がカウントを数え出すが、篠田選手は、ダメージを最大限まで消そうとしてか、すぐに立ち上がろうとはしなかった。
浩之も、この動きなき攻防を、苦々しく見ていた。
レスリングだけではない、エクストリームの攻防として、篠田選手はうまかったのだ。だから、葵は攻めることができなかった。
倒れた相手への打撃があればともかく、一度離れた仰向けの相手に近づくのはあまりうまい手ではない。
上からのしかかるしか方法がないのだ。そうすれば、股を開いて待つ相手の脚に胴体をとられてしまう。
ガードポジションを取られた場合、むしろ上の方が不利なのだ。一度、葵が将子選手をその方法で封じたように、今攻めても、すぐに耐えられるのがオチだ。それどころか、おいしすぎる逆転のチャンスを渡すことになりかねない。
葵は、結局は打撃専門の格闘家だ。組み技を、しかも寝た状態での組み技、グラウンドを専門とする選手の土俵で戦うメリットなどない。
打撃で、決めねばならないのだ。
その意思表示のように、葵は構えを完全打撃系に変えたのだ。そこからならば、相手が自分を掴むよりも速く、相手を殴り倒せる。
自信と、覚悟。
それは、確かに葵に力を与えた。その決意は、半分は成功して、葵の刃の切っ先は、篠田選手のあごを捉えたのだ。
だが、その感触に、葵はぞっとした。
わずかな当りであったのに、その感触の重かったことと言ったら、胴体を殴るような感触だった。
しかも、合わせるように後ろに逃げられた。ダメージは、見た目よりも当てることができていない。
首の、強さ。それが葵のアッパーを防いだものの正体だった。
ブリッジを基本とするレスリングをやっている人間の首の力は、驚くべきものだ。
首の力のない素人が頭をついてのブリッジをするときは、脳天を支点にして、首が垂直になるように立てる。
だが、レスリングの選手は、額を床につけてブリッジをして、さらに腹の上に人を、凄い者になれば、二人、三人と乗せるのだ。
その首の強さが、葵の打撃の衝撃を、脳に伝えなかったのだ。いくらスピード重視のアッパーだったからと言って、いや、スピード重視だったからこそ、普通は耐えられるものではないのだ。
かすりでもしたら、勝てると思っていた。
葵の正直な気持ちだった。自分の打撃が、あご先などというピンポイントにかすれば、絶対に相手は立てないと思っていた。
いや、顔面にもろに当たった方が、まだ耐えられるというものだ。あごの先にかすると、てこの原理で、頭はよく揺れるのだ。
「シックス、セブン……」
何事もなかったかのように、篠田選手は立ち上がった。信じられないことだが、さっきのアッパーのダメージが残っていないように、葵には見えた。
「やれるかい?」
「はい」
審判の声に、短く、しかし、はっきりと篠田選手は答える。その声に疲労もダメージも見ることはできない。
葵は、その声にぞっとした。
篠田選手の内に潜む、何か怖いものが、見えたような気がしたのだ。それは、むしろ「見えない」ものなのかもしれない。
底が、見えない。それは、強者の条件のようなものだ。
倒せないのではないのか、という恐怖が、また葵の胸のうちに生まれる。自分のクリーンヒットを当てても、相手を倒せないのではないのか。
この場合は、あれ以上どうやって当てればよいのかという意味だが、同じことだ。
私に、できるだろうか? 私に、この人が倒せるだろうか?
葵の心は弱く、相手が立ち上がってくるだけで、その身をちぢ込ませる。
それは、どうしようもない、葵の性格であった。ただ真っ直ぐで、目的に向かって一直線に進むしかできない性格なのに、酷く怖がり。
真っ直ぐ進むのは、それ以外を考えて気をそらせると、失敗が怖いから。
戦って、負けるのが怖いから、脚はすくむ。その場に立ちさえしなければ、負けることはないのに、と心の出す弱音が、葵の脚をにぶらせる。
それに、必要なのは、ただ励まして、自分を強いと言ってくれる人。
そして、昔と違う、自分の中の「これ」。
こんなに、篠田選手のことを怖いと思っている自分がいるのに。
胸が、熱くなってくる。
その気持ちをうまく表わすには、葵の語彙では不足するが、何に一番近いかと言えば、興奮、それに一番近い。でも、興奮だけではない、それが、楽しくて仕方ない。
葵の身体が、心が、格闘家である葵が、それを歓喜していた。
この人は、強いんだ。
すっと、篠田選手が、今度こそ油断なく、腰を落とす。もう、葵につけいる隙を見せることはない。そう言いたげだった。
それを攻略する方法を、葵はまったくと言っていいほど思いつかない。それは決して喜ぶべきことではないのに。
葵の身体は、その興奮を身体で示すように、走り出していた。
続く