止まるなっ!
葵の心の叫びに、身体は反応した。
相手が強いとわかっていても、今は多少なりともダメージを負っているはずだ。そこを狙わずに、いつ狙うというのだ。
うかつにも思えるほどに、葵は一直線に前に出た。
下に入られない限り、捕まることはない。
葵はそう読んだ。最初にがぶりに持っていかれたのは、篠田選手がうまいこともあったが、その多くは自分の油断の招いたことだ。
わかっていれば、あんなことを二度やられることはない。
その程度の自信は、いくら組み技が苦手な葵でもあった。だから、むしろ腰を上げて、フットワークを使い出したのだ。
これで、上には入れない。そして、下に入り込もうとすれば、自分のフックの方が、速く相手を捕まえる。
一撃では倒せないかもしれない。さっきのアッパーのダメージも、その首の力でほとんどは散らされてしまった。
だが、一撃で倒せなくとも、相手の動きは鈍る。十分対応できる範囲まで、篠田選手にダメージを当てればいいだけだ。
ぐっと、拳に力が入る。いるのはスピードではない、タイミングだ。相手の入ってくる瞬間に合わせれば、スピードは最小限でいい。
視覚となる上からの打撃を、避けるのは綾香でもない限りそうそうできるものではない。
それに、葵の背の低さは、今回に限りかなり有利に働いている。下に入るというのは、背の低い者相手に行う行為ではないのだ。
キックは出さない。カウンターの膝を入れる自信は、さすがに葵にもないからだ。取られれば終わりの状況で、キックはうかつには出せない。
葵の突進に合わせて、篠田選手の身体が前かがみになって、飛び込んでくる。かなり地面近くに腰を落としているが、頭はむしろ葵には狙い易いぐらいの位置にあった。
さっきまで、下から狙っていた打撃を、上から狙う。
葵の狙いは、酷くシンプルなフェイントだった。
さっきまで、葵は下からあごをねらったり、ボディーを狙ったり、下への、または下からの打撃で篠田選手を攻めていた。
上からの、そして横からの攻撃があると意識ではわかっていても、身体は下からの攻撃に慣れさされているはずだ。
そこから、急に上からの攻撃に変える。正確には斜め上からのフックになるのだが、これは案外避けるのは難しい。
コンビネーションとしては基本だが、打撃系でない相手には、効果的な方法のはずだ。
さらにそれを確実なものにするために、葵は左を下から振り上げる格好を取る。さっきまで何度も見せたアッパーよりも、より距離を取るために、突き上げるというより振り上げるような格好になるアッパーだ。
リーチの短い葵はあまり得意としないアッパーの形だが、これは避けさせることこそが目的であるので、十分だった。
腕を掴まれるようならば、それでもいい。上からかぶせるようなフックで、確実に仕留める。
篠田選手の頭が、葵の外側に出るにして、左のアッパーを避ける。葵の、予想通りだった。普通は、相手の外側に入るのは基本中の基本だが、今回は、そうも言えない。何せ、葵の身体が、葵のフックを隠すのだから。
腕が葵の脚に伸びる。その動きが、葵には見て取れた。
どんぴしゃっ!
アッパーを返す刀で、葵は懐に入るか入らないほどに近づいた篠田選手の頭部めがけて、右の上からのアッパーを振り下ろす。
ブンッ!!
しかし、葵の拳は、空を切った。
「っ!!」
渾身の力を込めたフックが避けられ、葵の上半身が泳ぐ。
避けられた!?
しかし、葵の身体に、篠田選手の身体が当たっている感触はなかった。そう、葵はよけられたというのに、脚さえ取られていない。
篠田選手の顔が、後ろに逃げていた。上半身がそのまま後ろに倒れるようにのけぞっている。後ろに避けることで、葵のフックを避けたのだ。
読まれた、でも!
反応したのか、それともとっさによけたのか。とにかく、篠田選手は葵の狙ったフックを避けていた。だが、それは決まり手にはならない。
のけぞっているならば、後ろに倒れるか前に戻ってくるかするはずだ。そこを、狙えばいいだけだ。
いかに葵が打撃系の選手でも、篠田選手の上に、マウントポジションを取れれば、勝てる可能性は高い。そして、今回は離れていない。篠田選手にガードポジションを取られる心配は少ない。
そして、戻ってくれば、そこに打撃を合わせる。コンビネーションならば、不安定な篠田選手を捉えることぐらい、できるはずだ。
だが、篠田選手の動きは、そのどちらでもなかった。のぞけったまま、顔が葵に近づいて来る。もちろん、それは数瞬の動きだった。
ぞくりっ、と葵の背中に悪寒が走ったが、すでに時遅かった。
そのまま、篠田選手は、滑り込むようにして葵の下に入り込んでいた。葵が反応したのは、すでに篠田選手の脚が葵の脚の間に絡まった後であった。
慌てて腰を落とすが、すでに時遅い。篠田選手はそのまま葵の脚を取り、葵を前のめりに倒す。
とっさに手をついて倒れたダメージはなかったが、それで助かったわけではなかった。
篠田選手の身体が、素早く葵の上にまわる。葵は、前に這うように逃げようとしたが、脚を取られていて、思うように逃げられない。
脚関節!?
脚を取られた葵は、自分の背中に戦慄が走るのを感じた。
それは、葵にとっては鬼門だった。組み技の練習に柔道をやっているが、柔道には脚関節がない。形意拳には、関節技もあるが、これまた脚を狙うような関節技は皆無、少なくとも葵は一度も教えてもらったことはない。
浩之がいくらか教えてもらった脚関節を習いはしたが、他のものに比べて、圧倒的に練習量が少ない。かけるのはもちろん、かけられるのにも慣れていないのだ。
だが、葵の心配は杞憂に終わり、篠田選手は素早く体を変えて上にのしかかってきた。もちろん、それで助かるということはない。葵にとってみれば、絶対絶命のピンチだった。
こんなに簡単に倒されるなんて。
葵は、手を組んで、首をひっこめ、まるで亀のような格好を取る。打撃のない状態ならば、この亀の状態が、組み技をやり過ごすのに適しているからだ。
篠田選手の腕が、その亀の隙間から入って、葵の腕を取った。それは見事な手早さで、葵には対応さえできなかった。
そのかわり、しっかりと手のフックを確認する。
これで、もし腕を伸ばされれば、自分の負けがほぼ決定することを、組み技にはうとい葵でも、よくわかっていたからだ。
うつぶせに亀になった葵の上に、蛇のように篠田選手はからまろうとしていた。
続く