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最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(126)

 

 抵抗する暇などなかった。

 篠田選手の腕が、すでに亀のように手足を丸めた葵の内側に入り込んで来たからだ。無理に逃げようとすれば、そこを捉えられるのは目に見えていた。

 だが、逃げなくとも、結果は同じだった。

 多少なりとも柔道を習って寝技を習っているとは言え、篠田選手はむしろそちらを本業とする格闘家だ。普通の攻防では、どうにもならない。

 まるでくさびのように篠田選手の腕が、葵の脇から入ってくる。もっと組み技の得意な選手なら、そこを取って逆転もできるのかもしれないが、葵にはそんな技術はない。

 瞬く間に、葵の丸めた腕に、篠田選手の腕が絡まる。

 このままこの腕をとられ、丸めた中から引きずり出された時点で、葵の負けは決定する。葵が組み技にうとくとも、それは理解できた。

 こうなってしまうと、後は両手をフックさせて、自分の腕が伸びきってしまうのを避ける以外の方法を、葵は知らなかった。

 いかに篠田選手が慣れていたとしても、葵もちゃんと両手をフックしている。これを外すには、かなりの力を必要とするだろう。

 ぐっ、と葵の腕が外側に引かれるが、葵の両手のフックは外れなかった。

 よかった、これなら、何とか耐えられる。

 葵は、心の中で安堵したが、それも一瞬のことであった。気を抜けば、篠田選手に腕を持っていかれるかもしれない状況で、気など抜けるわけがない。

 しかも、篠田選手は、一度葵の手を取るのを失敗しても、二度、三度と身体を揺すって葵の腕を取ろうと試みていた。

 相手は身体全体の力を使えるのに比べ、葵はそれに腕のフックだけで耐えねばならないのだ。

 筋肉疲労は少しずつ葵の筋力を弱めていくだろう。時間がたてばたつほど、葵にとっては不利な状況になっていくのだ。

 と、一瞬篠田選手の力が緩む。

 その一瞬で、葵は多少なりとも体勢を立て直すことができたが、本当にそれは一瞬の話であった上に、篠田選手は、それだけの時間で、こちらも体勢を整えたのだ。

 さっきまで葵の腕にかかっていた篠田選手の体重が、ふっと軽くなる。

 グンッ!

「っ!!」

 と同時にいきなり強くなった腕を引く力に、葵の腕が悲鳴をあげた。もちろん、フックは外れていないが、これは後十秒ももたない、そう思わせる力だった。

 篠田選手は、葵に覆い被さる格好から、葵の腕のある位置に、脚を持って行ったのだ。今までは身体全体、と言っても、上半身だけの力を使っていたのに、それにさらに下半身の力を使い、文字通り全身の力を使って、葵の腕を引き抜こうとしたのだ。

 もともと、寝技での脚の力というものは、もしかすれば腕よりも重要かもしれないものだ。

 特に、今篠田選手が狙っている、腕ひしぎ十時固めは、相手の腕を伸ばしただけでは、痛くも何ともない。

 素人は勘違いをしているかもしれないが、腕ひしぎ十字固めは、脚でかけるものなのだ。両脚の力で腕を絞り込んで初めて、総合格闘技で必殺の技、と言われる威力を出す。

 そして、技に入るまででも、脚の力が物を言う。

 自分も腕をフックさせれば相手との条件は五分。そこから、相手の身体を固定し、かつ脚の力で引きはがすことにより、相手の腕を取ることができるのだ。

 まずいっ!

 葵の頭の中に警報が鳴り響くが、それを葵はどうすることもできない。相手の力が、葵の技量を上回っているのだ。今の守り以上の行動を葵は取れなかった。

 篠田選手は、それでも粘る葵にとどめを刺そうとばかりに、上半身を交互にゆらして、ふりをつけて葵のフックを外そうと試みる。

 ずるっずるっと、引きずられるように、葵のフックの力が弱まっていく。まるで重しをつけられ、切れかけた縄のようであった。

 このままじゃ……駄目……

 そう思っても、葵にはどうすることもできない。

 今の状態では、浩之の声があったとしても、どうにもできないだろう。単純に腕力の問題に、奇跡など起きるものではない。

 もうもたない、葵がそう思ったときに、突然声が響いた。

「後ろ!」

 その言葉が誰から発されたのか、そしてどんな意味があったのか、葵が頭で理解するよりも速く、葵の身体が反応していた。

 葵の腕、つまり葵の前方の部分に全てをかけていた篠田選手から逃れる場所、それは後ろしかなかった。

 前に体重がかかっているのなら、後ろには体重がかかっていない。それは単純なことながら、それを思いつけるほど、葵の組み技の経験はなかったのだ。

 葵は亀のまま、素早く後ずさった。

 その反応を見越していなかったのか、篠田選手の体重は、完全に葵の上半身の、それも上の部分にかかっていた。

 フリーになった下半身で、葵は立ち上がった。取られた上半身はそのままだが、完全に寝ている状況を脱したのだ。

 こうなると、状況は逆転はしないものの、篠田選手は幾分不利な状況になった。

 この格好から、葵が相手を持ち上げるのはそう難しい話ではない。持ち上げるのは少しでいいのだ。膝上ほどまでも持ち上げることができれば、後は相手をマットの上に叩き落とすことができる。

 エクストリームのマットは結構硬い。レスリングのマットと比べれば、雲泥の差があろう。しかも、技をかけたままでは、受け身が取れない。

 受け身を取らずに、硬いマットの上に叩き付けられる怖さは、葵も十分その身でわかっていた。捨て身をすれば、本当に身を捨てることになるかもしれないほどに、ダメージが大きいのだ。

 投げ技に慣れていても、受け身を取れないという状況になれば、素人が投げられるのと大して違いはない。

 それを受けてもなお葵の手を離さずにおくのは難しいだろうし、何より、このままの体勢では、脚を伸ばすことができない。これでは腕ひしぎ十字固めは決まらない。

 篠田選手は、一つの決断を迫られた。

 つまり、このまま意地でも技を狙い続けるか、それともこの体勢から離れて、一度体勢を立て直すか。

 篠田選手に迷いはなかった。葵が両脚で立ったのを確認するやいなや、葵が篠田選手の身体を持ち上げる前に、素早く葵を放し、距離を取っていた。

 倒れている相手への打撃を禁止されているエクストリームでは、篠田選手が放すのはともかく、距離を取る必要は何もないのだが、もしもの葵の組み技を警戒したのだ。

 確かに、隙あらば、と葵は狙っていたのだし、篠田選手の行動は杞憂ではなかった。

 距離を取って、篠田選手がまだ立ち上がらないのを見てから、葵は大胆にも、葵にアドバイスをした相手に、振り向いた。

 そこには、葵の尊敬する綾香が、苦々しげな顔をして、葵を見返していた。

 

続く

 

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