セコンドが選手に助言をすることは何も問題はない。
意味があるか、と問われれば、ある、と言える。
本人では気づけない方法というものが確かにある。ダメージを受けたり、頭に血が上ったりして、冷静な判断ができなくなったときに、まわりから冷静にものを判断できる人間が助言をしたり、作戦を示したりする有用性は、説明するまでもないだろう。
経験豊富なセコンドに、若さと力のある若手が手を組めば、うまくすれば化学反応が起きて、驚くべき金星をあげることもある。
それほどセコンドというのは重要なのだ。
事実、葵は他人からの一言で、危機を脱した。
いい方向に考えれば、体重が片方によれば、片方が手薄になることを、実際にやられて思いつくことは葵にはできなかったのだ。
それを、理解か経験かは別にして、端的に葵に理解させたセコンドとしての言葉は、実に的確だった。
ただし、そのアドバイスをした本人は、苦々しく顔を背けていた。
「……綾香」
浩之に肩を叩かれたが、綾香は顔をそむけたまま、それを無視した。
やっちゃった……
綾香本人も、自分が何をしてしまったのかわかっていたのだ。だからこそ、浩之がにやにやしながらこちらを見ているのは、見なくともわかる。
綾香は、今まで葵に助言をしてこなかった。敵になる以上、手を貸すことをしない。それは相手に対する敬意みたいなものなのだ。
浩之を河原で相手にしたときは、浩之はまったくの素人だったのだし、助言をして、ある程度格闘技を教えることは問題なかった。むしろ、それこと公平な話だったろう。
だが、葵の場合は違う。葵は、綾香も認める格闘家だ。一人前の格闘家に対して、敵である自分が助言するのは、相手を一人前に見ていないようにも受け止められるかもしれない。
しかし、葵が危機に陥っているのを見て、綾香はつい助言をしてしまった。
助言をすれば、おそらく葵は逃げられるとは感じていた。そして、反対に助言しなければ、かなり危機だということもわかっていた。
「助言はしないんじゃなかったのか?」
「……何よ、悪いっての?」
綾香は、ほほをふくらませて浩之の言葉に答えた。
葵は、実際の格闘技の実力はともかく、経験は少ないのだ。それを補助するセコンドの存在は必要不可欠であり、それを浩之ではできない、というのも薄々想像はできた。
しかし、それでも葵のためには、助言をしないのがいい、と思っていたのだが。
私が我慢できなかったってのはね。
しかし、それも冷静な判断だ。あのままでは、葵は危なかった。葵が自分の力でぬけられないと判断した瞬間、綾香は我慢できなかった。
これぐらいで葵はへそをまげたりはしないだろうけど。
自分の実力を、葵もよくわかっている。あのままでは危なかったのもわかるだろうし、性格上、綾香を責めることはないとは思うのだが、意地悪な浩之の声は腹がたつし、言った言葉を実行しきれなかった自分にも腹が立つ。
「いや、俺は感謝してるぜ。綾香のおかげで、葵ちゃんがあれから逃げることができたしな」
「のわりには、笑ってるわねえ」
そう、後輩に助言したのを責められるいわれはない。自分がかわいがっている後輩に対してならなおさらだ。
うん、私は悪くない、と綾香は勝手に納得、いや、開き直った。
「最初から、意地をはらずに助言してやればいいじゃないか」
ある意味そういう物に慣れているのか、坂下はため息をついただけで済ませた。綾香が素直でないときの対応ぐらい、長いつきあいで慣れている。
「まあ、葵はまだまだ発展途上なんだ。助言ぐらいいいんじゃないの?」
浩之のように意地の悪いことを言い続ければ、大して時間をかけることもなく、綾香が切れるなど見るまでもないのだから、適当にフォローしていくのが賢い選択というものだ。
坂下はそう思ったが、同じことをわかっていても、浩之はこういうチャンスを逃す気はまったくなかった。
「しかし、葵ちゃんのことは感謝してもいいが、自分で言ったことは最後までやりとげないとなあ、とは思うな」
「浩之、何がいいたいの?」
「そりゃ、ここぞとばかりに綾香をいびっておこうか……いででででっ!」
綾香が浩之の身体に抱きつくようにして腕がらみをかけたのだ。打撃格闘家にあるまじき素早い動きだった。
浩之の胸に飛び込むように前に出ながら、左手で右手をつかみ、右を相手のわきに入れて、そのままひじを決めたのだ。まわりから見れば、いちゃついているようにしか見えない。
「何か言った?」
綾香は、激痛にゆがむ浩之の顔に向かって、にこり、とひまわりのような笑みを向ける。
「ぼ、暴力反対! 痛い、痛いってっ!」
「もう、せっかく胸をおしつけてるんだから、ちゃんと感触楽しまないと」
ちなみに、身体を密着させているのは、相手が逃げにくいようにするためだ。実は下では片足をからめていたりするので、浩之が距離を離すことはできないのだが。
「で、何か言った?」
「いや、言ってない言ってない。葵ちゃんがピンチを脱してよかったなあって、いたたたっ、悪かったって!」
浩之を虐めていると、少しは気がはれてきたので、しばらく腕を決めるだけで、許してやることにした。このまま後遺症が残るほどにやってやってもいいのだが、それはそれで楽しみが減るのでやめておいた。
「くそー、恐怖政治だ!」
敗者の浩之が何か遠吠えをしているが、気分のよくなった綾香はそれを無視して、逃げることのできた葵の方を見た。
さすがに、もう綾香の方を向いてはいなかった。そのかわりに、じりじりと、篠田選手を距離を取って出方を見ている。
うん、逃げ方はうまかったわよ。
心の中で、綾香は葵をほめておいた。
後ろ、という一言で、あれだけ的確に動ける。それは葵自身の実力だ。いかに綾香のアドバイスがあっても、それだけの実力が葵になければ、やはり逃げることはできなかったのだから。
まあ、確かにするつもりはなかったんだけど……サービスしておいてあげるわ。
次は、何も言わないつもりだった。例え、葵が負けると感じたとしても、次は言わない。
いかに、自分が葵を信頼できるかだ。
自分が負ける、と思ったときでも、それをくつがえしてくれるぐらいでないと、自分が楽しめるわけがないのだし。
それだけのものを、葵に求めるのは、間違っていない。綾香は、今度こそそう信じることにした。
続く