さすがに、葵ももううかつに攻めることができなかった。
構えはボクシングスタイルのままだが、葵は篠田選手と大きく距離を取っていた。牽制の打撃どころか、飛び込むタックルさえ届かない距離だ。
篠田選手も、葵と同じく距離を縮めようとしないので、お互いににらみ合ったまま動かない状況になっていた。
エクストリームではたまに起こる状態であり、片方が攻めているならともかく、両方とも手を出そうとしなければ、反則は取られない。
ダメージはそうない。首のダメージもほとんど抜けている。
それは、向こうも同じ話なのだろうが、いかんせん、ここで攻めるほどに葵は無謀にはなれなかった。
さっきの攻防は、かなり危険だったのだ。少しでも間違っていれば、負けていたろう。
綾香さんの助言がなかったら……
考えただけでもふるえが来た。関節技は、極められたら逃げようがない。例え葵が腕が壊れてもギブアップしなくとも、レフェリーストップがかかるのは間違いない。
紙一重だったのだ。その差で、葵は負けの逃れた。
だが、それでお互いにわかってしまったのだ。所詮、二人の間は紙一重でしかないということを。少し狂えば、葵が勝っていたかもしれない。
そう、さっきは篠田選手が葵を追いつめたが、次をやれば葵が篠田選手を追いつめるかもしれない。
葵も怖くて前に出られないのだが、篠田選手も、怖くて前に出られないのだ。
また振り出しに戻るのはうれしくはないが、一度距離が離れた時点で、このラウンドは、回復に走ることに葵は決めた。
どうせ、このラウンドの残り時間は少ない。相手にタックルを決められても、勝敗に結びつくまでには時間が足りない。
しかし、葵としても、攻めることはできない。この短い間では、当てるための準備段階を満たすどころか、まだいくらかある手を、見せるだけで終わることになるかもしれない。
そこまで考えるなら、相手に手を出させて、自分は守りきるのが、一番正しい方法なのだろうが、篠田選手も同じことを考えているのか、手を出して来ない。
だからと言って、油断できる相手ではないので、お互いに、遠い距離から、視線で牽制しあいをする。
3、2、1……
「待てっ!」
審判が、一ラウンド目の終了を宣言する。
それが幻聴ではないことと、相手が仕掛けて来ないことを判断して、葵はほっと一息ついて腕をおろす。
ラウンドが終わったからと言って、急に構えを解くわけにはいかない。ないとは思うが、相手に届いていないこともあるのだ。無防備の場所に攻撃されると、ダメージは大きくなる。
審判から、一分の休憩を伝えられると、葵はさっそく浩之達のところに戻る。
「はい、葵ちゃん」
浩之が、笑顔で迎えながら、葵にドリンクを渡す。
「ありがとうございます」
葵は、それを一口だけ口に含んで、ゆっくりと乾きを潤すようにして飲み込む。ガブ飲みしたいほどの乾きも疲労もないが、緊張していたためか、口内は思ったよりも潤った。
浩之にドリンクの入った水筒を返してから、葵は綾香に頭を下げた。
「ありがとうございます、綾香さん。正直、綾香さんの言葉がなかったが、危なかったです」
何故か横で浩之がにやにやしているが、綾香はそれに一瞥くれるだけで、普通に答えた。
「仕方ないわねえ。私が助言しなかったらどうするつもりだったのよ」
「はい、多分、負けてました」
強がる意味もないので、葵は素直に答えた。葵の技量では、逃げ方など思いつかなかったのは事実である。
「冷静に言える内容じゃないわねえ」
「でも、次はちゃんと自分で逃げます。その前に、あの体勢にはならないように気をつけます」
一度篠田選手のグラウンドから逃げられたからと言って、次も逃げられるなどという保証はないのだが、これ以上綾香に助言をしてもらうわけにはいかない。
「次は私、言わないわよ」
口調は軽いものの、葵はそうは感じなかった。綾香は、ふがいない後輩をしかっているのだ。少なくとも、葵にはそう感じる内容だ。
「はい、わかってます。でも、一度でも、ありがとうございました」
綾香は、ふうっ、と大きくため息をつくと、顔を崩した。
「まったく、私にこんなに心配させるのは、葵ぐらいのものよ。強いんだから、もっと安定して勝てるようになりなさいよ」
まあ、そうやって経験を何度も積むことによって、強くなっていくのが普通なのだ。それなら、負けるところを逃げることに成功した上に、経験をつめたのだから、いいことずくめなのかもしれないが。
「それで、相手はどう?」
坂下が、葵を、というよりは、綾香をフォローするように口を挟む。
「はい、強いです。さっき一ラウンドだけでも、かなりの回数決定的な瞬間を逃げられています。それに、私も何度も危険な状況に持っていかれてます」
「まさに紙一重ってやつだよな」
浩之から見て、実力には差がないのでは、と思えるほどに、緊迫した試合だった。
「はい、でも、その紙一重を、避けられています。私もそうではありますけど、でも、どちらも決めきれないのは、お互いの実力の所為だけじゃないと思います」
「相性が悪いんだか、いいんだか」
篠田選手は組み技を得意とする選手であり、打撃系との練習をまったくしていないわけではないだろうが、その組み技と打撃を反対にしたのが葵なのだ。
それでも、お互いの必殺の状況を、お互いとも返されているというのは、むしろ実力が均衡しているのも含めて、相性というものなのだろう。
慣れていない方の攻撃を、お互いに避けているのだから、次の攻め方が想像できない。まさか、苦手な方向で勝負するわけにはいかない。
篠田選手は知らないが、葵には組み技の裏技、みたいなものはない。打撃のどの技にも、葵の組み技の技は劣るのだ。
「勝てる?」
「勝ちます」
綾香の質問に、綾香は瞬間に答えることができた。
確かに、勝つ方法は思いつかないが、負けるなどとは、葵は思っていない。勝つために、ここにいるのだ。
綾香は、うんうんとその反応に満足したようにうなずく。
「どうやって、を考えているのかどうかわかんないけど、答えるだけはできるみたいね。いいわ、私がせっかく助言したんだから、こんなところで負けたりしないわよね」
質問というよりは断言だ。
葵は、ここで負けるような器ではないのだ。まだ、その器は満たされていないとしても、負けるなど、あっていい話ではない。
いつか、もっと強くなったときに、綾香がその身を喰らうために、葵にここで負けてもらうわけにはいかないのだ。
「大丈夫です、一応、まだ色々やれることはあるので」
少なくとも、全てを出し切るまでは、葵は不覚を二度と取るつもりは、なかった。
続く