「レディー、ファイトッ!」
審判の合図に合わせて、二人が、すぐに距離を取る。
二ラウンド目が始まってすぐに、二人はぶつかることを避けたのだ。もう、一ラウンド目でその強さは十分にお互い理解できている。
無意味な攻防は、むしろ自分を危機に導くことが、わかっているのだ。
それでも、手を出さないままではいられない。お互いに、試合場に突っ立って見合いをするためにこの場に立っているわけではないのだ。
もう様子見をするには、十分だ。
葵も、色々手を考えてここに立っているのだ。がむしゃらに攻めるよりも有効な手を打てるのか、と言われると、正直不安だが、そこまではやってみないことにはわからない。
すいっと、葵は構えを変えた。
左半身で、左腕を少し前に出し、右のガードを少しだけ上にあげる。
打撃だけに頼っていたときよりも、少し守りに主眼を置いた構えだ。いつもの葵のスタンダードの構えに近いが、少し右腕がいつもよりも上にあがっている。
正直、葵はこの相手にガードは必要ないと思っている。
打撃を使ってくる気配はないし、何より、得意ではない打撃相手なら、守りに重点を置かずとも処理できる。
今までの攻撃一辺倒の構えは、葵のそういう打算から生まれたものだったのだ。組み技だけ警戒すればいいからこその、攻撃重視の構えだったのだ。
構えを変えた今も、その考えは変わっていない。
これは、攻撃のための構えなのだ。
綾香は、その葵の微妙な構えの差をわかっていた。腕がいつもよりも上にあるのは、浩之が見てもわかることだが、むしろ、それよりも、重要なのはその半身がいつもよりも浅いことなのだ。それに気付いているのは、この場でも何人もいまい。
正中線、人体の急所が集中していると言われる、人間の中心の線、を隠すための半身なのだが、相手が打撃を使って来ない、いや、使ってきたとしても、怖いレベルではないのだから、正中線を隠すことよりも、攻撃に重点を置けばいいのだ。
しかし、この構えは……
「葵ちゃん、しかけるのか?」
実力的に近い相手にしかけることによる危険を、浩之なりに心配しているのだろう、小さな声で綾香に聞いて来る。
「当然じゃない。攻めないことには、勝てないんだから」
「だって言ってもなあ……俺の考えでは、相手に手を出させて後の先を取った方が有利に思うんだが」
浅くはないとは思うが、正解とはとても綾香には言えない。
「それで、相手が予想外の攻撃してきたらどうするのよ。絶対対処できるとは言えないでしょ。ましてや、相手は葵と違って組み技に精通しているのよ?」
「それもそうなんだが……」
まあ、浩之にしてみれば、葵が攻撃しようが守りに入ろうが、不安なものは不安なのだ。そこまで保証してやる気には綾香だってなれない。
ただ、一言だけ、言ってやることにした。それでも落ち着かないだろうが、そこまでは綾香の知ったことではない。
「大丈夫よ、葵は、ちゃんと考えて、うまく攻めるわよ」
「綾香がそういうならそうなんだろうし、俺も、葵ちゃんを信じられないわけじゃないんだが……」
何をするのか、そのほとんどを読めるのだろう綾香と、何もわからない浩之の間に差があるのは仕方のない話なのだ。
まあ、綾香だって、読みで葵が負けると思ったときには、とっさにアドバイスを飛ばすのだから、浩之の出番などないのだろうが……
しかし、浩之も不安だろうが、葵は葵で、自分の考えがどれだけ通用するのか、不安で仕方ないのだ。
ただ、自分が動く、というおかげで、ある程度割り切ることができるだけの話だ。
葵の構えが変化したのを見て、篠田選手は、同じく構えを変える。腰をほんの少しだけあげて、腕を付きだして、守りの構えに変える。
やはり、やっかいな相手だ……
対応を見ただけでも、葵は篠田選手の実力を十二分に理解できた。一ラウンド、攻め合ったのだから、今更わかっていたことなのだが。
葵の構えが変わったのを見て、同じく構えを変えるのまでは、普通の動きで、おそらく誰でもする。
しかし、変化した構えが、守り重視というのは、さすがとしか言いようがない。
葵の攻撃が、おそらく自分では対応の難しい、特殊なものであろうことを予想して、まずはさばくために守りを重視したのだ。
攻めるにしても、一度は回避しておかないと、それすらままならない。もともと、キックの引き脚に合わせるのも、カウンターと同じで、相手のタイミングを読んでやることなのだ。つまり、相手のタイミングを読めなければ、仕掛けることができない。
葵としては、ここで篠田選手に、色気を出してもらって、攻めてきてくれるのを祈っていた。いや、むしろ、誰でもそうするだろうと思っていた。今まで守りを固めて、攻めて来なかった相手が、自分から来てくれるのだ。願ってもないチャンスのはずだ。
もちろん、葵の危険は増えるが、生半可な対応では、ぼろが出る可能性は高い。総合評価をすれば、葵の方が有利な展開になるはずであった。
その心理戦を、読んだのか、それとも冷静に考えてその方がいいと判断したのか、篠田選手は守りに徹することによって、その結果を半々に持ってきたのだ。
何度も技を見せれば、タイミングを取られて、あの引き脚に合わせたタックルを仕掛けられる可能性が増える。
……ここは、待ちに徹するべきか?
構え一つでも、ほぼ完璧とも言える篠田選手の対応を見て、葵の中に迷いが生じる。おそらく、すぐにはタイミングを取られることはない。それは間違いない。
だが、二度目はいいとして、三度目は?
それでも平気だったとしても、その後は?
タイミングを読まれる、という危機感を持ったまま、キックを打つのはまずい。そう思って今まで葵はキックを使わなかったのだが……
しかし、崩拳以外で言えば、葵はキックの方が得意なのだ。その小柄な身体で、パワーも同時に手に入れるためには、腕の三倍と言われる脚の力はなくてはならないものだ。
……そう言えば、将子さんとの戦いでも、私は怖がってキックをなかなか出せなかった。
警戒するに越したことはないが、自分の持ち味を殺しているように、葵は感じた。だが、反対に、ここでキックを多用するのは間違っているとも思っている。
つまり、葵はキックを出すつもりなのだ。そのための、この構えなのだ。
うかつにキックを使うのは間違っている。しかし、勝つためには、出すしかないのだ。そのジレンマに、葵は悩まされているのだ。
そういう色々な計算も含めての、構えなのだ。
……うん、ここは、仕掛けよう。
相手が守りに入っているということは、今は手を出せば、相手の反撃は最小で済むということだ。自分の考えが通じるかどうかを試すには、いいチャンスではないか。
少しの恐怖を、その理で塗りつぶすと、不思議なほど軽く葵の脚は一歩を前に出た。
すぐには飛び込むことはできない。フェイントを織り交ぜつつ、しかし、葵は確実に距離をつめていた。
飛び込んで打てる技ではない。かなり近くまで、このまま……
一歩一歩に、神経がすり減られる気分だった。篠田選手は守りの構えになっているとはいえ、近づけば近づくほど、組み技の恐怖があがるのだ。
しかし、葵は何とか近づいた。篠田選手の方にも、警戒心があるのだろう。攻めてこないのが幸いしたのだ。
よし、いけるっ!
葵は、そのチャンスに、左脚から飛び込んだ。
続く