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最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(131)

 

 何が起こっているのか、まわりから見ている浩之には、すぐには理解できなかった。

 ただ、葵が有利な位置に立ったことだけは、その攻防の機微から読み取ることができた。篠田選手の動きが、どこか鈍いのだ。それでも浩之では相手にもならないだろうが、葵にはそれだけの差があれば、決定的と言えるレベルで、篠田選手は弱っているように見えた。

「何が起きているんだ?」

 自分で色々考えてみるのもいいのだが、どう見てもわかりそうになかったので、浩之は横で目を細める綾香に訊ねた。

「篠田選手の、弱点を葵が攻めてるのよ」

「弱点?」

 浩之からは、篠田選手に欠点も、弱点も見られない。綾香と比べれば、極端に落ちるとは思うが、十分上のレベルで完成された格闘家に見える。

「葵ちゃんも、あんなに無造作に前蹴りなんか出して、危なくないのか?」

「だから、その前蹴りが相手は苦手なのよ」

「前蹴り……って、葵ちゃんの前蹴りは、それは速いけどさ。やっぱり葵ちゃんの得意なのは得意なのは回し蹴り系じゃないのか?」

 葵のキックは怖い。いわゆる回し系、横からまわすように振り出される蹴りは、葵の全身のバネを使い、体重の乗った、しかもスピードもある怖いものだ。

 その点、前蹴りは、練習はそれはしているだろうが、回し蹴り系と比べると、落ちる。

 もともと、前蹴りは体重の重い者の方が有利な技なのだ。バネよりも、体重をかけることが重要になる技だし、スピードのみの葵のような前蹴りでも、当たれば体重の軽い葵のそれは、そう怖いほどの威力はない。もちろん、回し蹴りと比べたらの話で、直撃を受ければただではすまないのだが。

「篠田選手が一発無理に耐えるつもりで受けて、取られたらどうするんだよ」

「なかなかあれを受ける勇気はわかないんじゃない? というより、あれを受けたら、それ一発で決まっちゃうわよ」

「腹だろ? 俺でも受けられる可能性はあると思うぜ」

 打たれ強さで鳴らす浩之だが、別に浩之でなくとも、格闘家の腹への鈍器での攻撃は、聞きにくい。鍛え易い腹の筋肉で完全に守られているそこは、一発ではそう簡単には決まらない。

 ボクシングでも、ボディーに対する攻撃は、KOを狙うのではなく、内蔵にダメージを与えて、スタミナを削って動きを鈍らせることこそに意味があるのだ。

「相手の半身が浅いでしょ。あれだと、葵ならみぞおちに入れられるわ。浩之、葵の前蹴りを、みぞおちに喰らいたい?」

「……いいや、やめとくわ」

 みぞおちを強打されれば、いかに筋肉を鍛えていようと、意味がない。そこには筋肉がつきにくい、どころか、ほとんどつかないのだ。まわりの筋肉を発達させて、間を狭くすることはできるが、それにも限界がある。

 人体急所に、葵の前蹴り。あまり幸福な組み合わせとは思えない。

「あれを狙われたら、なかなか入る、ってのはできないわよね。横に逃げながらでも、葵なら上から襲うこともできるし」

「……しかし、葵ちゃん、よくそんなこと考えられたなあ」

「ま、実際のところは、脚のバネだけで出す前蹴りが、一番キックの中で戻しが速いと思ったから、使っただけなんじゃない?」

 綾香の半分いいがかり的な内容は、実は合っていたりする。

 最初は、そう思って前蹴りを考えたのだ。よく考えてみると、今のような戦略的な結果に落ち着いただけなのだ。

 しかし、前蹴りにスピードがあるのは間違いない。打撃だけのスピードを見れば葵のハイキックは速いかもしれないが、予備動作のなさ、引きのスピード、連携に入れることのできる条件、などを考えると、確かに前蹴りが一番速い。

 しかし、葵がみぞおちを狙っているのは、篠田選手にはわかっているだろう。だから篠田選手は受けずに逃げるのだが、そろそろそれに気付いてもいいころだった。

 篠田選手の腰が、少し伸びる。前屈みの度合いを少なくしたのだ。そして、今度は深い、つまり横を向くような左半身の構えを取る。

 前蹴りをみぞおちで受けないための構えの変更は、一見正しいようにも見えるが、篠田選手の顔に余裕はない。

 全体を考えれば、その前蹴りを恐れて前に出ないよりは、構えを変えて攻撃にまわった方がいいと考えるのは間違っていない。

 少なくとも、半身を深くし、しかも身体を上に向けた篠田選手のみぞおちを狙うのは酷く難しくなっている。

 しかし、篠田選手は苦々しく思っているだろう。この構えの変更は、大元のところは、何も変わらないということをわかっているだろうから。

 身体を横に向けて構えてみればわかる。それは、組み技には適していない。片手では相手を捕まえ切れないし、半身を動かして正面を向くだけ、時間が取られる。

 半身の構えは、人体急所の集中した正中線を隠すこともあるが、打撃系の技を有利に進めるためにもあるのだ。

 前に突き出した拳は、何よりも速く相手に届く。

 後ろに構えられた拳は、身体の回転の乗った、強い威力のパンチが打てる。

 相手のキックを、前に出した脚を浮かして流す。

 後ろの脚の突進力を、そのまま飛び込みに使える。

 それは、とにかく打撃が有利に事を運ぶ世界なのだ。組み技も、もちろん少しは半身になるが、打撃ほどの恩恵は受けられない。

 この構えを、取らせたかった。

 篠田選手は、打撃でも油断のできない選手ではあろう。しかし、それも組み技と比べれば、何分の一、もしかすれば何十分の一ほどの怖さしかない。

 ここは、葵の世界だ。葵が今まで鍛え、賭けてきたものを存分にふるえる世界。

 その世界に脚を踏み入れても、もちろんそれ以外の世界に行くこともできる。しかし、それは葵がこの世界で力を振るうよりも、遅い。

 遅いということは、弱いということだ。

 ヒュパンッ!

 葵の飛び込みざまのジャブが、篠田選手のガードを叩いた。

 もう、少しも暇を与えることはない。ここからは、葵のステージなのだから。

 助走もつけず、一気に距離をつめた飛び込みだったが、それを篠田選手はガードした。それほどの選手ではあるのだ。

 しかし、ここで戦う以上、葵は負けるなど思えなかった。

 前蹴りを放つと見せかけて、膝をあげる。しかし、それはフェイント。それをかいくぐって取ろうとする篠田選手の後頭部めがけて、拳を振り下ろす。

 ドコンッ!

 地雷の爆破のような音を立てて、篠田選手の身体が下にずれる。しかし、素早く腕でガードを入れていたのだろう、腕をついたものの、篠田選手は倒れなかった。

 そのまま倒れれば、カウントを取られないまでも、判定で大きく不利になる上に、このまま攻めれば、手をついた状態からの組み技と見なされて、やはり反則を注意されるだろう。

 だから、篠田選手はそのまま上を見ずに一歩前に出ると、拳を突き上げた。

 その動きが素早かったので、葵はそれを後ろにのぞけってよけるしかなかったが、しかし、そのときには膝があがっていた。

 ズバンッ!!

 葵の前蹴りが、予想したわけではないだろうが、ガードを固めていた篠田選手のみぞおちを、腕の上から蹴る。

 それで、二人は大きく距離を取った。

 拳に残った手応えで、葵はこの攻防が十分な効果があるのを理解していた。ガードの上からとは言え、篠田選手への後頭部へのパンチは、効いたはずだ。

 しかも、今は自分の世界。そして、さらに自分にはダメージがない。

 葵は、今有利な位置を、固めつつあった。

 

続く

 

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