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最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(137)

 

 葵の身体が、葵の意思に従うように、宙を飛ぶ。

 問題は、その腕のフックだ。だが、葵には、そのフックを外す力は残っていない。違う手で、それを覆さなくてはいけない。

 だから、葵は飛んだのだ。

 ズダーンッ!!

 投げられた衝撃と、身体を覆い被せるようにした篠田選手の体重が、葵の身体に響く。

 首が限界を超えていると悲鳴をあげている。しかし、意識も、手足の感覚も、はっきりしていた。

 脚に無理な負担をかけた篠田選手の動きが鈍い。普通なら、相手を上向けに倒して、そのまま上に乗っかっているなど、決定的な場面を逃したりはしないだろう。

 だが、葵の身体は、篠田選手の身体の下から、逃げ切っていた。

 そう、結果は反転したわけではなかった。しかし、葵はその決定的な場面を、逃げ切っていた。

 何が起きたのかわからない篠田選手は、慌てて立ち上がろうとする。それは下策中の下策であったが、気が動転していたのだろう。

 それほどに、篠田選手には葵を仕留めたつもりだったのだ。

 篠田選手の両腕が浮くと同時に、待ちかまえていた葵は、脚を振るった。

「せやあっ!!」

 ズバシィッ!!

 葵の気合いのこもったかけ声と共に繰り出されたミドルキックは、中腰まで立ち上がっていた篠田選手の側頭部に入った。

 そのまま、篠田選手の身体が、横にはじかれ、倒れる。

 だが、一撃必殺というには、あまりにも稚拙な攻撃だった。気合いの入ったかけ声も、単に自分の悲鳴を消すために出したようなものだった。

 体勢は十分であったが、威力はいつもの半分もない。手応えも悪くなかったが、篠田選手の首の強さから言って、それが勝負を決する打撃でなかったのを自覚できた。

 だが、そんな理性を、葵はもう保てなかった。膝こそつかなかったものの、手を膝についた状態から、それ以上動けなかった。

 反対に、篠田選手は、のろのろと立ち上がろうとしている。

「ワンッ、ツーッ」

 審判のカウントの声も、観客のうるさいほどの歓声も、今は葵を攻めるものでしかなかった。音が、首に痛みを感じさせる。

 いや、息をしても首へのダメージは痛みとして感じられるのだ。かなり危険な状況だった。

 それでも、葵は篠田選手の投げを受けきった。

 まさに、受けきったのだ。逃げたのでも、かわしたのでも、耐えたのでもない。

 腕も脚も有効な打撃を与えられない、と判断した瞬間に、葵は自分から飛んでいたのだ。

 マットは硬いし、受け身を成功したところで、ダメージは免れない。しかし、それを最小限に抑えることはできる、と葵は思ったのだ。

 自分から飛んで、先に脚から降りる。

 脚の裏から降りれば、かなりの衝撃を吸収できると思ったのだ。

 しかし、それには篠田選手の腕のフックが邪魔であった。それを葵は外すだけの腕力がなかった。だから、そのままにしたのだ。

 生きたのは、あれから言われて身体を柔らかくするように努力してきたことだ。

 寝技の回避のために、柔道道場でブリッジを鍛えておいた方がいいと言われ、ブリッジも鍛えていたが、それよりも、腰の柔軟も大切と言われ、それを実践していたのだ。

 そのおかげで、胴体を持たれたままでも、先に脚から降りることに成功したのだ。後は、篠田選手が身体を預けてくる衝撃に耐えられれば、投げを受け切れた。

 もちろん、ダメージはゼロではない。耐えられるギリギリに持って来られただけで、かなりの賭けであった。

 しかし、篠田選手の脚へのダメージが、ブリッジのスピードを遅くしていたのもあり、葵は何とか耐えることに成功した。

 後は、無理でも脚のダメージで動きの鈍った篠田選手の下から、逃げればいいだけだった。

 とっさの慣れていない受け身だったが、その思い切りの良さが、葵を生き残らせた。てっきり決まったと思った篠田選手は慌てたために、無防備に立ち上がって来たので、そこを葵は蹴った。

 だが、その蹴りがまずかった。

 もう、一歩も今は動けそうになかった。首のダメージもわかってはいたが、それでも、あそこで蹴っておかないと、自分の勝ちはないと判断してのことだったが、それは決定的な技になってしまった。篠田選手にではなく、当の本人の葵にだ。

 二ラウンドは、後何秒あるのか、それすらわからない。いや、もう痛みで顔を上げられないのだ。

 ここを篠田選手に攻撃されれば、もろく倒されてしまうのだろうが、葵は動けない。最後の力を振り絞ったキックが、なるだけ多くのダメージを篠田選手に与えていることを祈るのみだ。

「スリーッ、フォーッ」

 ここでのテンカウントはない。脚への感触からそれは確かな話なのだから、葵は、構えるしかない。だが、すでに構えることができない。

「ファイブッ、シックスッ」

 こんな絶望的な状況なのに、葵はこのカウントが、テンまで来ることを一つも考えなかったし、何故か望みもしなかった。

 その選択肢が、葵の中になかったのだ。

「セブンッ、エイトッ」

 と、そこで審判の声が止まる。それは、篠田選手が立ち上がったのを意味した。顔を上げることができないので、それを確認することができないが、それでも間違いないだろう。

 観客が、よりいっそう歓声を大きくする。

 そして、葵の考えは、決定的なことに、ここでは間違えなかったのだ。

「いけるかい?」

「はい、やれます」

 篠田選手の、熱を帯びた声が、葵に届いた。

 葵は、落胆もしなかった。篠田選手が立ち上がってくるのは間違いない話であったし、もともと希望さえもっていなかったので、失望する理由がなかった。

 それよりも、頭の中では、痛みがうるさいほどに身体を責めるのに、変なことを、いや、格闘家としては正しいことを考えていた。

 失敗した、あそこで、ローキックを打っておけば、勝てたかもしれないのに。

 それは甘い考えでもあるが、戦略として、一番正しい方法であったのも確かで、葵は自分が方法を間違えたことを、この痛みの中考えていた。

 格闘家としては、最後まで勝ちを狙う、正しい行動だった。

 首をあげようとして、葵は激痛を感じた。しかし、このまま手を膝についたままでは、自分が負けになってしまうのだ。

 経っている以上、葵は負けるわけにはいかないのだ。

「ふー……」

 審判が篠田選手の状態を見ている間に、葵は深呼吸をしながら、首をあげ、構えの体勢を、ゆっくりと作る。

 限界の近い状況だ。だが、まだ、葵は構えた。

 

続く

 

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