頭部へのダメージは、どれだけのものだろうか?
期待というよりは、素直な疑問だった。今、葵に期待などという言葉は邪魔でしかないのだ。正確な判断、それがないと、この状況を脱しきれるものではない。
葵のダメージをわかっていないのか、それとも、篠田選手自身、攻撃には不都合なほどダメージを受けているのか、立ち上がっても、篠田選手はすぐには攻めて来なかった。
ほんの数秒で、この均衡が崩れるものだとしても、今の葵には何よりもありがたい時間だった。
時間が経ては、篠田選手の脚からはダメージが消えてしまうかもしれない。しかし、それよりも深刻なダメージを受けている葵には、時間稼ぎは何よりも重要なことだった。
その体勢から、一歩も動かない。ほんの少しの動作が、篠田選手の攻撃を誘発する可能性があるからだ。。
もっとも、今の葵は、そんなことは関係なく動けないのだが。
考えろ、この状況を打破する方法を、何か考えるんだ。
出てくるはずのない答えを、葵は求めた。どうせ篠田選手が動き出してしまえば、考えた内容など頭からすっぱりと消えてなくなってしまうのだろうが、首の痛みから気をそらすために、頭をめぐらせないといけなかったのだ。
ぴくり、と篠田選手の脚が動く。まだ左脚のダメージが抜けきらないのか、右脚だけだ。だが、ローキックの一発しか入れていないのだ。そろそろ回復するだろう。
実際のところ、篠田選手の左脚のダメージはまだ抜けていない。この状況を見れば一目瞭然だが、ダメージの抜けきる前に、何度も無茶をしてしまった以上、回復が遅くなるのは当然だった。
それでも、葵のダメージよりはましであった。その事実は、変わらない。
ほんの少しのフェイントだったが、葵は、何もなかったように反応しなかった。わざわざ反応して動くだけでも、葵の首は痛みを発するのだ。
必要以上に動かない。それが葵の出した結論だった。
いや、必要どころか、それこそギリギリの先までしか動かない。動けば動くほど、不利になるのは自分なのだから。
それで、後何秒、もしかすれば何分あるかもしれないこの二ラウンドを捌ききれるとはとても思えないが、それでも、やれることを、無理にでもこなすだけだった。
篠田選手の身体が、動いた。
肩を左右にゆらせる、単なるフェイントだ。葵は、それにはまったく反応しなかった。十分フェイントと読めたというのもある。
しかし、篠田選手がそれをどう受け止めたのかは、葵のうかがい知れないところだ。痛みで動けないと事実をついてきているのかもしれないし、まだ冷静な判断ができるほどの体調だ、と過大評価をしているのかもしれない。
だが、それはすぐに知れた。
左脚をひきずりぎみにしながらも、篠田選手は、前に出て、葵の脚にタックルをかけてきた。
もう、かわすなどという行為はできない。
最小の動きだ。それでもダメージを必ず受けるが、それでも、最小と最大ならば、その差は大きい。
半歩、葵の身体が前に出た。
しかし、その動きは緩慢で、頭部を狙った拳は、篠田選手に、簡単にかわされた。
ドンッ
腕に伝わる、重い衝撃。快音などまったくない、鈍い音であったし、そこまでパワーがあるようにも聞こえなかった。
ズキーンッ、と、冗談にならないほどの痛みが、葵の首を襲う。
しかし、それだけだった。痛みはひくどころか、余計に酷くなっているが、それだけだ。それだけであるのを、葵は自覚できないほどにその痛みは激しかったが。
「うくっ」
小さい悲鳴が、篠田選手に聞こえたことにも、もう気を払うこともできないほどの、首への衝撃。
無傷の状態ならば、何でもないはずのその一撃分の威力が、倍々になって、葵の首を襲った。
しかし、それだけだったのだ。
篠田選手は、何故か葵を捕まえることもせずに、距離を取ったところで油断なく構えていた。半身が深い。葵が、前蹴りを多用していたときと同じ構えだ。
あれ、篠田選手は、タックルをかけてきたはずでは?
そのタックルを避ける方法が、葵にはなかった。だから、迎撃するしかなかった。もちろん、今の状況で倒せるとは思っていないが、それでもあがくだけあがこうと、行動したのだ。
その代償は大きかったが、葵の拳は、篠田選手の頭部を捉えることができなかった。
そこまでは葵の記憶の範疇だ。その後の強い衝撃による胸の痛みで、半分意識の飛んだ葵には、その後何が起こったのか、わからない。
痛みから無理矢理意識を引きずって、気付いたときには、篠田選手は離れていた。
拳が、当たったのだろうか?
いや、衝撃があったのだから、そうなのだろうが、それにしても、あの場面で篠田選手を下がらせるほどの威力を込めた打撃は、放てたのだろうか?
結果から言うと、放てたはずだ。
でなければ、篠田選手が下がった理由が思いつかない。
しかし、こんな状況で放ったパンチに、いくらほどの威力があるというのだろうか。ダメージのために、キックを放つことさえできないような状況でだ。
ああ、それにしても、歓声が痛い。
大きくあがる歓声が、今の葵の首には毒でしかない。もとより、酷い話かもしれないが、試合中の葵の力になるのは、綾香のアドバイスと、浩之の応援だけなのだ。
葵にはわかっていない。葵が、一撃で篠田選手をはじき飛ばした、その威力に、観客がわいていることを。
葵は気付いていない。浩之の声がなかったからこそ、その鱗片が見えたことを、葵は自分のことながら、まったく理解していなかった。
だが、横で見ていた浩之や葵、そして、受けたことのある坂下にはわかった。この試合場でも、それの凄さを、見た目以上に理解している人間は、その三人以外には、ほんのわずかしかいなかった。
「今の……」
浩之の疑問を、綾香は無視した。いや、いちいち浩之に反応してやる余裕が、綾香にはないのだ。
まさか、こんなに早くもう一度見れるなんてね。
完璧ではなかった。あのときも、それが完璧なのかどうかはわからないが、あのとき、坂下を倒した、あの拳には、今の一撃は劣っていた。
しかし、わずかばかりの動きから生まれたそれは、まさしくそれに類似した力だ。
篠田選手はタックルをかけた。しかも、狙いすました、そうするしかなかったのだが、葵の正拳突きを、かわしたかに見えた。
そう、頭部はかわしたのだ。しかし、その拳は、篠田選手の肩を叩いた。
叩いただけならまだしも、そのまま、篠田選手の身体を、大きく後ろに跳ね飛ばしたのだ。篠田選手はバランスを保って倒れはしなかったものの、その一撃に、攻めることができなくなった。
まさか、その瀕死の状態で、まだそれだけの威力を残しているなど、思いもしなかったのだ。
いや、誰だって、そんなものがあるとは、思っていないはずだ。
「待てっ!」
審判から、試合を止める声があがる。二ラウンドが、終了したのだ。
決定的なダメージを受けながらも、坂下を倒し、受ければ自分でも一撃で倒れると、綾香に言わしめ、浩之が、葵の実力を、完全に信じるに至った技。
崩拳。
そのほんの少しの片鱗が、葵を、ギリギリのところで、またもや、生き残らせた。
まるで、葵を守るかのように。
続く