「葵ちゃん!」
浩之は、それが葵の首に響くと思っても、声を低くすることができなかった。
それほどに、葵の姿は満身創痍だったのだ。よく試合が止められなかったものだと思う状態だ。浩之に心配するなと言う方が無理だろう。
しかし、綾香は浩之よりも冷静だった。葵にかけよった浩之を押しのける。
「揺らさないで、浩之!」
何とか浩之達の前に帰ってきた葵の首に、綾香はさわった。専門ではないものの、ある程度の怪我、続行可能か不可能かぐらいは、綾香にも判断できる。
「……どうだ、綾香?」
綾香は無言で、葵の首に、いつの間にか用意した氷の入ったビニール袋を当てる。緊急のアイシングだ。痛みと腫れは、それなりに緩和できるはずだった。
そして、そっと葵を支えながら座らせる。今は一秒でも惜しい。少しでも、葵の回復の時間にあてたかった。
その的確な応急処置で、痛みは我慢できないものから、何とか我慢できるほどに落ち着いていく。意識してかわからなかったが、横で浩之が葵の手を掴んでいるのも、いくらか効果を及ぼしているのかもしれない。
だが、葵はしゃべらない。息は荒いが、それさえも控えているようにしていた。身体がゆれるだけで、首が痛むのだ。
「けっこうやばいわね。大事を取るなら、この試合は棄権ね」
「棄権って……」
まさか、葵がこんな地区大会で消える?
浩之にはにわかに信じがたい話だった。葵が負けるのは、綾香以外にあり得ない。そして、綾香を破るのも、葵以外はありえないと信じていたのだ。
「ありえないね。これぐらいでへこたれるような教育、葵にした覚えはないよ」
坂下は、厳しい口調でそう言った。しかし、それは葵を叱咤しているというよりは、鼓舞しているように見えた。
葵に対する信頼という意味では、坂下が一番なのかもしれない。
「もちろん、私は許さないわよ。例え、後遺症が残ろうと、ね」
それは、綾香の脅しだった。無理をさせる、そう言って、葵が少しでもためらうようなら、試合を止める気でいた。選手生命には問題はないものの、決して浅いダメージではないのだ。このまま試合場にあがっても、負けにいくようなものなのだから。
葵は、うなずくことができなかったので、かわりに、綾香の腕を掴んだ。それは、試合を止めないで欲しいという意思表示だった。
たかが予選で、首に爆弾をかかえるなど、バカな話だが、葵はそれでも負けたくなかったのだ。綾香の脅しのような言葉にも、まったく屈しなかった。
そんな葵を、綾香はいつもよりも幾分か優しい声で諭した。
「大丈夫よ、後遺症が残るほどじゃないわ。次の試合は厳しいかもしれないけど……この試合、勝って来る気なら、止める気はないわ」
しかし、その優しい口調が、反対に浩之の不安をあおる。
「本当に大丈夫なのか?」
綾香は医者ではないので、どこまで信用できるかわからなかったが、すぐにアイシングをするなど、やることは正しい。今は綾香に頼るしかなかった。
「大丈夫、って私が言うのも何だけど、大丈夫だって。葵の身体、見た目じゃわかんないけど、かなり頑丈にできてるんだから」
その細さも、身体の密度とは関係ない。葵の身体の密度は高く、しかも、とっさに色々と受け身や、筋肉でかばうなど、天性のカンが働く。
さっきの投げを、これだけのダメージで済んでいること自体、驚くべき才能だ。
「とにかく、アイシングはしとくけど、あんまり期待しないでよ。私だって医者じゃないし、動かさない以上の治療方法なんてないんだから」
しかし、まだ後一ラウンド残っているのだ。動かさないわけにはいかない。
ここで負けを認めるなら、それもできるだろう。しかし、葵がそれをよしとするわけがないのだ。
首の痛みを、少しでも取る。それが浩之達にできる唯一のことだった。後は、全て葵の力にまかせるしかない。
しかし、不安な浩之の目は、かごんで葵の目を見たとき、その不安を、一瞬、忘れた。
怖いほどに、葵の目は真っ直ぐに、何かを見ていた。
それは、葵の拳。つい少し前に、自分の危機を、一撃で救った拳。
坂下の試合以来、葵は一度も崩拳を打てていない。自分で制御できない技など、技と呼べるのかどうかも怪しいが、とにかく、葵のカードの中に、その技はなかった。
だが、それに近い技が出た。
ここで、やっと葵は、篠田選手を跳ね飛ばし、自分の危機を救った技が崩拳であったことに至ったのだ。
コンディションは最悪だった。
試合が始まる前から、大小のダメージはあった。二回も試合をしてきたので、それも仕方ないが、この試合に受けた首へのダメージは、おいそれと消えるものではない。
たかが一分の休憩でできる処置で、どうこうなるダメージではないことぐらい、葵本人が一番知っている。しかし、今はそれどころではないのだ。
崩拳が、打てた?
最小の動きで、篠田選手を吹き飛ばすほどの打撃は、崩拳しか葵の中にはない。しかし、その場面が、どんなものだったのか、自分がどう動いたのか、それがわからない。
それがわかれば。
葵は、そう思わずにはいられなかった。
それがわかれば、この試合、私が勝てる。
例え首が痛かろうと、その一撃を、もっと急所に近い場所に当てることができたなら、勝てる。崩拳の直撃を受けて、立てる人間などいない。
問題は、どうやったのか、それが思い出せないこと。
そして、崩拳自体の衝撃に、首が耐えられるかという問題も残っている。おそらく不完全だっただろう崩拳の一撃でも、気の遠くなるような、そしてそれも通り越して目の覚めるような、激しい痛みを感じたのだ。
この拳は、応えてくれるだろうか?
勝つためには、この拳が、葵の通常以上の力を出さないと駄目だ。それを、信じられるだけの拳だろうか?
愚問だった。
拳だけではない。葵のこの小さな身体のどこをとっても、葵の期待に応えなかったことはない。いや、もう無理だというときでさえ、身体は動いてくれた。
そして、一度で駄目なら、次を、それで駄目なら、また次を、この身体は狙ってくれる。
大丈夫、この身体は、応えてくれるはず。
首に当てられた氷が、少しずつではあるが、首の痛みを溶かしていく。完全にはほど遠いものの、少しの動きになら、耐えられるような気がしてきた。
葵の手を、力強く、そして優しく握る浩之の手が、暖かかった。それは、葵に無限の勇気と、自分を支える自信を与えてくれる。
いける。私の身体は応えてくれる。
そして、私は今一人じゃない。支えてくれる人たちがいる。今はまだそれに助けてもらってばかりだけれど、それでも、この戦いを終えたら、私はまた一つ強くなれる。
もう、少ししか回復の時間はなかった。それでも、葵の戦う準備は、すでに済んでいた。後は、その力を相手に叩き付けて、勝つだけだ。
「両者、位置について」
審判の声に反応して、葵は、立ち上がった。
続く