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最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(140)

 

 目の前に立つ篠田選手には、ダメージが残っているようには見えなかった。

 脚をひきずるほどのローキックが、試合中の時間と、休憩の一分で完全に回復したとは到底思えないが、引きずらないほどにはダメージも抜けたということだ。

 それに引き替え、綾香の手当てがよかったとは言え、葵の首はまだズキズキと痛みを発している。動かない今でさえこうだ。動けばこれ以上の痛みに襲われるのは明白だった。

 それでも、篠田選手も決して余裕のある顔はしていない。葵のダメージを、冷静に判断できているはずの篠田選手は、しかし、現状を有利とは、とても思っているようには見えなかった。

「それでは、三ラウンドを開始します」

 審判の声に、二人は反応して構えた。篠田選手は素早く、葵は緩慢な動きで。

「レディー……」

 葵の予測が正しければ、この試合、判定で決まることはない。そして。

「ファイトッ!」

 そんなに時間もかからずに、この試合は決着を見るだろうことを、葵は予測していた。

 篠田選手の身体が沈む、と同時に、葵に飛びかかってきた。が、それは誰の予測も振り切って、拳での攻撃だった。

 葵は、それを冷静に避ける。最小限の動きで、篠田選手のパンチを手ではじいたのだ。

 篠田選手は、さらに続けて連打を打つ。僅かばかりリーチの長い篠田選手の攻撃を、葵は一方的に避ける格好となった。

 だが、打撃では、葵は倒せない。篠田選手も、それはわかっているはずだ。

 鋭いパンチの連打も、やはり打撃に全てをかけている葵には、十分さばけるレベルだった。

 ダメージのたまっている葵を小突いて、回復をさせないようにしようとしているのかもしれないが、痛みは引かないものの、それでも首に負担をかけない動きで篠田選手の攻撃をさばけていた。

 であるならば、篠田選手のこの攻撃は、単なる誘いでしかないはずだ。

 突然、篠田選手は攻撃の手を止め、距離を取る。葵はそれを追いもしなかった。

 篠田選手が何をしたいのか、そして葵に何をさせたいのか、するりと自然に葵の頭の中には浮かんでいた。だから、手を出さずに、まるで傍観しているように篠田選手の攻撃を冷静に捌ききる。

 篠田選手の無理な攻撃を、葵が冷静に捌いた。それだけの攻防に見えるが、その間にはかなり高等な駆け引きがあった。

 篠田選手が手を出したのは、言わずと知れて、葵に手を出させるためだ。いや、今回は脚を出させるため、と言った方が正確だろう。

 葵のキック、それもローキックを篠田選手は狙っていた。

 ローキックが篠田選手にとって嬉しくない攻撃であっても、来るとわかっているのなら、捕まえることができると篠田選手自身思っているのだ。

 だから、葵の拳の届かないギリギリの距離で戦い、脚を出させたかったのだ。そうすれば、引き脚に合わせて葵を捕まえることができる、そういう作戦だった。

 葵がうかつに攻撃してくる可能性は高かった。近距離の打撃戦から、急に組み技にもっていくのは難しいし、ローキックを狙うには、非常に有利な距離だったのだ。

 篠田選手も、かなり危険をかえりみない作戦だったのだが、それは自爆はしなかったものの、不発に終わった。

 誘われたのを理解したのか、それともローキックを出せるまでに回復していないのか、葵は脚を出さず、しかも篠田選手が後ろに逃げるときにも、追いもしなかった。

 ローキックの誘いはともかく、後ろに下がるときには、篠田選手には隙があった。その隙も、篠田選手は罠として使おうとしていたが、葵が有利であるのは間違いない時間だった。

 だが、下がる篠田選手に手を出さなかったことを、正しい、と葵は考えていた。

 葵は手負いだ。無駄な攻撃はできない。ローキックの誘いにのらなかったのは、半分は罠とわかっていたからだが、半分はローキックを打てば、それで自分の身体が攻撃する力をなくすと感じていたからだ。

 首の痛みは、一秒一秒たつごとに、ひいていっている。

 まだ、渾身の一撃につなげるだけの回復はしていないものの、それも時間の問題だ。それまでは、葵から手を出すことはない。

 判定などあり得ない。何故なら、葵は判定を狙っていないからだ。判定で決まるときは負けるとき。つまり、ありえない。

 自分がここで負けることなど、あり得ないのだから。

 それは妙な確信として、葵の中にあった。一応、説明もつけられる。

 篠田選手は、葵を回復させないために、攻撃をし続けなければならない。さばくのは今の葵の集中力なら難しいものではないが、それでも回復は遅れる。

 渾身の一撃へつなぐための体力が回復するまでの時間を稼がせないことが、篠田選手の勝つための手段だ。

 少なくとも、今葵が篠田選手に捕まえられることはない。少なくとも、こちらから攻めていかない限り。

 崩拳に似た、篠田選手をはねとばした一撃が、篠田選手が葵の懐に潜り込むのを躊躇させるのだ。いや、躊躇どころではない。不可能にさせている。

 それすらかわせばいいのだが、かわせなければ、それで終わり。肩ならまだ跳ね飛ばされるぐらいで済むが、これがまかり間違って、頭にかすりでもしたら、確実な負け。

 相手の打撃を一、二撃耐えるつもりで飛び込むのならばいい。事実、篠田選手はなるだけダメージを受けないように、とは思っていても、最後の最後は、受けてでも何とかする、という気迫でタックルをかけているのだ。

 今回は、それが使えないのだ。当たればそれで終わり。しかも、まったく力が入っていなかったような動きで打たれたそれが、どの体勢なら来ないのかわからない。

 不確定要素が多すぎる。そして、ここまで来れば不確定要素は、敗因になる。敗因が明らかにある場所に、篠田選手も攻めることはできない。

 結局、篠田選手には打撃を打って来るしかないのだ。それも体勢を崩さない、つまり葵が半歩前に出て打つ打撃を避けられるだけの余裕を残した、早いジャブでしか、攻撃ができないのだ。

 たった一撃が、試合の流れを完全に葵にかたむけていた。

 それでも、まだ何かをしてくるのでは、と思わせる篠田選手の実力は、間違いのないものだろうが、葵には、それすらもう怖くなかった。

 葵の身体には、色々なものが宿っているのだ。それが、葵を、必ず勝たせる。

 結局、葵の考えた通りに、篠田選手はまたジャブの連打を葵に打つ。観客から見てもはがゆい攻撃かもしれないが、篠田選手が行える、唯一の行動だった。

 そして、それは長くは続かないことも、葵は知っていた。

 いずれ、このままでは葵の身体が回復する。それを篠田選手はわかっているはずだ。仕掛けるならば、早い方がいい。

 今の篠田選手の攻撃は、その逡巡でしかない。

 決断を、篠田選手はそう遠くない時間でするだろう。そして、勝負をかけてくるはずだ。葵の崩拳、に似た打撃をかわして葵を捕まえられるか、それとも、当たって負けるか、やってみなければ、わからないその勝負に。

 しかし、葵も、その覚悟はもうできている。そのときは、身体の調子が整わなくとも、勝負をかけねばならない。

 どちらにとっても、今の攻防は、最後の勝負の前の、インターバルに過ぎないのだ。

 勝負を、かけてくる。次がそうだ。

 篠田選手の決心が葵に伝わり、篠田選手が攻撃をあきらめ、離れると同時に、葵の身体は、構えを変えた。

 拳を、葵は引いた。

 

続く

 

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