作品選択に戻る

最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(142)

 

 ズバシッ!!

 葵のハイキックが、篠田選手の頭を蹴り抜いた。

 篠田選手の身体が、一度葵の蹴った方向に揺れてから、そのまま、まえつのめりに倒れる。

 体勢も威力の十分なハイキックだった。サンドバックにだって打ち込んだことがないほどに、ハイキックが完璧に決まっていた。

 このハイキックが決まった以上、勝負は決まった。葵の経験から言って、それは間違いない。

 しかし、同時に葵の背筋に、ゾクリ、と悪寒が走る。

 倒れた篠田選手の手が、残された葵の左足を掴んでいた。倒れると同時に、身体の伸ばし、葵の足をギリギリに掴まれたのだ。

 両手で掴まれていたが、まだ腕で取られて固められてはいなかった。

 ここで、足を篠田選手の手から抜くことができれば、ダメージ量で葵の方が有利になる。倒れたままでいるわけにはいかないので、一度立たなくてはいけない。フラフラの篠田選手相手なら、今の葵にも勝機はあった。

 だが、それがわかっていても、葵の身体は動かなかった。

 今のガードを突き抜ける掌打と、右の渾身のハイキック。それが身体の限界を超えた動きだった。

 首の痛みが、また強くぶり返して来た。もともと、安静にしていなければならないダメージだったのを、無理に動かしたのだ。

 ここで足を抜くことができれば、勝ちだ。でも、もう、その力が……

 さっきまで、自分の言うことを聞いてくれた脚が、今はまったく動かない。相手に取られても倒れないようにふんばることも、すでにできない。

 二秒、三秒、と時間が経っても、葵は動けなかった。

 ダメージが抜けない。今まで無理をしていたものが、全部ここで来たようだった。後は、篠田選手が何秒で回復するかだ。

 いかに我慢したとは言っても、篠田選手がすぐに動けるわけがない。ハイキックの手応えは本物だった。これで動くのなら、それはすでに人ではない。

 ようは、どちらが先に動けるほどに回復できるかだ。

 葵が先に動いて、足を抜くことができれば、葵の勝ちは揺るがないだろう。

 反対に、篠田選手が先に動けば、篠田選手が勝つだろう。

 五秒、六秒、と二人は動けない。

 観客達は、その様子を、とまどいながら見ていた。どう見ても、決定的な場面であるのに、葵が、そして篠田選手が動かないのが、何故かわからないのだ。

 観客達にはわからないだろうが、葵には、この時間は怖い時間だった。

 篠田選手が動けば、負けるのだ。一瞬でも早く自分の身体を動かそうとしているが、ほんの少ししか動こうとしない。

 篠田選手の腕から逃れるのに、何十秒もかかりそうな緩慢な動きだった。それだけでも、葵の首には痛みが走るのだ。もう、動く動かないの意味はなかった。何をしなくとも、首は痛みを発するのだ。

 丁度十秒、まだ、二人に動きはない。葵がゆっくりと、本当にゆっくりと脚を動かす以外の動きは、試合場の上ではなかった。

 まだ、まだ動けないのか。

 葵は気ばかり焦っていた。しかも、それと共に首の痛みがむしろ強くなっているようにさえ感じる。

 首のきしむような音を感じながら、葵は必死に脚を動かす。

 葵は、首の痛みに気を取られて、気付けなかった。

「待てっ!」

 審判の声も、すでに葵には聞こえていなかった。審判が近づいて、篠田選手の身体に手をかけて、やっと、審判の存在に気付いて、試合が止められたのを気付いたほどだった。

 葵は、気付けなかったのだ。篠田選手の身体が、本当にぴくりとも動かなかったことに。

 しかし、それも仕方ない話だった。篠田選手は、倒れながらも、葵の足をしっかりと掴んでいたのだ。

 例えすでに気絶しているとしても、強い力で、篠田選手は最後にあがこうとしたのだ。

 審判が確認してみれば、それは一目瞭然だった。手にこそ強い力が入っていたが、それだけの話だった。もう、身体には篠田選手の意思がなかった。

「それまでっ!」

 審判の合図と共に、ワッと歓声があがる。怪訝に思いながらも、篠田選手が最後にあがいたそれが評価されたのか、それとも、葵の勝ちに単純にわいたのか。

 しかし、葵には、勝ちを宣言されても、そこから動けなかった。

 そして、勝った実感もなかった。理解できないとか、信じられないとか、そういうものではなくて、純粋に、自分が本当に勝ったのか、疑問に思っていた。

 それに、強く握られた篠田選手の手は、今の葵でははがすことができないし、何より、葵は今のところ、歩くこともままならないほどに疲弊していた。

「勝者、松原選手っ!」

 審判が葵の方に手をあげながら宣言すると、もう一度、歓声があがるが、それに応えることも、恥ずかしがることもできない。

 審判は、すでに意識のない篠田選手を運ぼうと、葵の足から篠田選手の手をはがそうとしていた。

 しかし、意識がないにも関わらず、篠田選手の手ははがれない。タンカを持ってきた係の者も含めて、二人がかりで、やっと篠田選手の手が離れる。

 と、同時に葵の中で、何かが切れた。それは緊張の糸や、気力とも言えるものなのだが、篠田選手の手が離れたとたん、それは折れた。

 そのままマットの上に落ちることを、葵は何とも思わなかった。そんなことを考える余裕さえ、葵にはすでになかったのだ。

 結局、葵の身体はマットの上に落ちる前に、抱きかかえられた。

 顔はあげないが、その匂いで、自分を受け止めたのが、浩之であるのがわかった。匂いなどかいだこともないつもりなのに、身体の方はちゃんと覚えているようだった。

「お疲れ、葵ちゃん」

 その声は、どこまでも優しく、葵の中に入り込んで来る。今、こんな状況だからこそ弱っている葵は、身体が動くなら、そのまま浩之の胸に顔をうずめていただろう。

 しかし、今顔をうずめているのは、葵の意思ではなかったし、もとより、その体勢から動けないのだ。

 まわりの目も気にせずに、浩之は葵をかかえたまま、試合場を降りる。葵の身体に衝撃を与えないように細心の注意を払いながらだ。

「まったく、ひやひやものね」

 いつの間にか横についた綾香が、楽しそうにそう言って来る。言葉の内容に反して、責めている様子はない。

「まあ、何はともあれ、治療が先だろ。ほら、藤田、さっさと歩け」

 坂下は、浩之をせかしている。葵のダメージを心配してのことだろう。

「無茶言うなよ。いくら葵ちゃんが軽いからって、揺らさないように歩くのって難しいんだぜ」

 そう、この小さな、そして軽い身体が、ついさっきまで、試合場の上で死闘を繰り広げていたなど、信じられない。それほどに、すっぽりと葵の身体は浩之の胸の中に収まっていた。

 三人に囲まれて、葵は急に眠気を感じた。身体の痛みも、それにつられるように、消えていく。

 ガッツポーズも、浩之に抱きつくこともなかったが、葵は、準決勝を、勝った。

 しかし、それも忘れて、葵は、信頼できる浩之の胸の中で、すでに寝息を立てていた。

 

続く

 

前のページに戻る

次のページに進む