葵の試合が終わった。つまり、それは午後のナックルプリンセスの、通常の試合が終わったことを示す。
残るは、三位決定戦と、決勝戦のみだ。
しかし、それはナックルプリンセスだけの話ではない。男子の部、ナックルプリンスも、三位決定戦と、決勝があるのだ。
葵を膝の上にのせたままでは、準備運動もできない。しかし、浩之は文句一つ言わなかった。
試合まで、まだ少しは時間があるし、そもそも、浩之のダメージだって完全に回復しているわけではないのだ。特に、準決勝でのKOは、一日二日で全快するようなレベルではないのだ。
それなのに、夕方には試合をしなくてはいけないという過酷さ。それを言えば、ナックルプリンセスの選手など、最後の試合が終わって、一、二時間もすれば試合をしなくてはいけないのだ。かなり厳しい状況と言える。
ウォーミングアップなど、十分もあればできるのだ。今は、葵のことを考えて、じっとしている方がいいに決まっていた。
葵は、またゆっくりとその小さめの胸を上下させている。完全に、浩之に対して無防備に、安心し切って、回復のために眠りについている。
もちろんそれが嬉しくないわけではないのだが、浩之が悪戯するなどと思ってもいないのだろうし、もし浩之にその気があっても、まわりで目を光らせている二人がいる以上、安心するのは当然の話なのかもしれない。
綾香は、葵が多少のことでは起きないことを確かめるように、葵の形の良い鼻をちょんちょんとつっつく。
一応、つつかれたことには反応しているようだが、脊髄反射以上の反応はないようだ。完全に葵は寝入っていた。
「うーん、男に膝枕させて熟睡って、葵、なかなか度胸あるわね」
「言い方が何か変態くさいんだけど、綾香」
綾香と坂下がそうちゃかして見ても、葵にはさっぱり反応がない。
しかし、それは何もおかしなことではない。むしろ、葵は今一番重要なことを選んでいると言っていい。
KO寸前までのダメージが蓄積されていたのだ。それを少しでも回復して、次の試合に臨むためには、寝て体力を回復するのが一番いい。
どれほどの気休めにしかならないとしても、休んでいるのといないのとでは、まったく結果が違ってくるだろう。
それに、肉体だけでなく、三ラウンドを戦い抜いた精神的疲労というのもバカにならない。それを、安心できる場所で寝ることによって、こちらは全快できるかもしれない。
肉体と精神は切っても切り離せないものだ。どんなに体調が悪くとも、精神がその身体を引きずり動かすことは、不可能ではないのだ。
だから、葵はどけることもせずに、その場で寝入ったのだ。恥ずかしいとかそういうのを度外視して、そこが一番安心できる場所であったのだから。
「それで、浩之。体調は?」
葵が多少のことでは起きないのを確認してから、綾香は少し声を落として、浩之に尋ねた。
「まあ、完調、ってわけにはいかねえけどな」
十分に休息と食事を取ったのがよかったのだろう。身体のダメージはかなり消えていた。何故か何度となく追加のダメージも受けたような気もするが、それについてはそんなに深刻なものにはなっていない。一応、綾香も手加減をしてくれたということだろう。
「気持ち悪いところとか、まだ痛む場所とかない? 筋とか関節とか、危ない場所の痛みはちゃんといいなさいよ」
少し過保護なぐらいに注意をする綾香を、横で坂下が妖怪でも見るような目で見ている。
「気色悪い綾香ね。藤田、何か盛った?」
「毒の一個や二個盛ったぐらいで、綾香がどうにかなると思うか?」
「ちょっと、二人とも、私を何だと思っているのよ」
そんなことは言う間でもない。当然怪物と思っている。が、どちらも言うまでもないことだったので、言葉には出さなかった。
「葵のダメージはこのままちゃんと寝てればけっこう回復すると思うけど、浩之はKOされるだけのダメージ受けてるんだから、心配するのは当然でしょ」
「綾香……」
綾香が神妙な顔で言ったので、浩之も真面目な顔で応える。
「もう、わかってくれればいいのよ」
「もしかして後から俺をどついたのに責任感じてるのか?」
「全然」
それもかなり問題ありだと浩之は思うのだが、綾香は浩之の皮肉を、あっさりと撃退した。
「一応、後遺症はないように殴ってるから」
あったら困るが、なければいいというものもないだろうに、とは思うのだが、そんな当たり前のことを綾香が聞いてくれる訳がなかった。
「ああ、そうか。次にまだ試合があるんだね」
坂下はもう葵の決勝戦しか頭になかったのか、ぽんっ、と手を叩いた。
「綾香がぽんぽん藤田の頭を殴るから、てっきりもう試合はないものと私も思ってたよ」
「ぐっ……」
坂下のあてつけが、さすがの綾香にも少し効いたようだった。しかし、一瞬引き下がったように見えたものの、すぐに開き直る。
「避けられない浩之が悪いのよ」
「……それはあんまりだと思うんだか」
綾香の打撃を避けることができる選手など、そう多くはないのだ。それを考えれば、浩之はむしろよくやっている方、とさえ思える。
「ま、冗談はこれぐらいにして……」
冗談ではなく、浩之は事実殴られているのだが。
「ほんとに大丈夫、浩之?」
「ん……まあ、何とかなるだろ。寺町が打撃専門で反対によかったんじゃないのか? 関節とかへのダメージはないからな」
まるで熱を出したような頭痛も、残っていた熱も、かなりの部分引いている。それにともない、あの無駄に高いテンションも、すでに消えてしまっているが、それはそれでいいのかもしれない。
あのテンションをずっと保っているのは、何か身体の中のものを削っているようで、身体にはよくなさそうであったので、落ち着いてよかったというものだ。
もちろん、完全にダメージが抜けたわけではない。身体の節々が痛むのは、程度こそ落ちたが、まだ残っている。
だが、十分に戦える。そこまでは回復してきた。
「この試合、浩之は負けるわけにはいかないのよ。わかってる?」
「……何でだ?」
もちろん、負ける悔しさは、準決勝で嫌というほど味わっている。勝つつもりで戦うが、何か特別な理由がそこにはあっただろうか?
「あのねえ」
綾香は、大きくため息をついた。
「エクストリームの本戦に行けるのは、上位三人。つまり、この試合で勝てば、本戦に行けるのよ」
「……あ」
その声が、間違いなくそのことを忘れていたことを示していた。
続く