浩之は、ウレタンナックルに指を通した。
まだ、使い古されていないそれは、特注品であるので浩之のサイズにはぴったりではあったが、しっくりとは来ない。まだ、身体になじむほどは使用していないからだ。
しかし、そのウレタンナックルとは、もう何年もつきあいがあるかのような錯覚に、浩之は襲われていた。
今朝、この体育館に来たときに、どんなことを思っていたのか、思い出せない。それほど、この数時間は、浩之にとって長いものだった。
そして、これから、また長い時間が始まろうとしていた。
つい、と試合場を隔てた場所を見ると、そこには英輔が、道場の面々に囲まれて、やはりウレタンナックルをつけているのが見えた。
……女性比率が多いよな、どっちも。
本戦に進めるかどうか、という大事な試合の前に、浩之はそんなのんきなことを考えていた。
実際、エクストリームに出場する男子の選手の中では、まれに見るほどに女性のセコンドなり、知り合いが来ている。むしろ、今日でも屈指の二人と言えよう。
測らずも男がうらやむ戦いを二人は繰り広げていたのだ。もっとも、どちらともそんな戦いなどしたくもないし、やってもいないのだが。
ぼうっとしながら英輔の方を見る浩之を見て、葵が綾香に耳打ちする。
「センパイ、さすが、落ち着いていますね」
かいかぶり過ぎとしか言い様がない。
「私には、またくだらないこと考えているようにしか見えないけど」
綾香は、いたって冷静で公平だった。まあ、浩之の日頃の行いというのも、綾香の考えに影響していることは否定できないのだが。
しかし、落ち着いているということだけを見れば、落ち着いている。落ち着きすぎている。もとから気負うような浩之ではないが、今はむしろ闘志さえ感じられない。
反対に、英輔は葵から見ても、いつも通りにこやかな顔をしているが、それでも、たまにこちらに、浩之か葵を見ているのだろうが、その目には遠くからでもそれとわかる闘志が宿っている。
どちらにかけるか、と言われれば、十人中九人が英輔にかけるだろうほど、その差ははっきりしていた。
しかし、その方が、むしろ浩之らしい、と最近は綾香も、そして葵まで思うようになってきた。必死な浩之よりも、むしろこんなやる気のない浩之の方が、よりその力を発揮できるのではないか、とも思えるのだ。
それに、今の浩之は、ただ眠っているだけ、だとも言えるのだ。
試合が始まれば、また、あの寺町戦で見せた浩之が、目を覚ますかもしれない。そうすれば、英輔相手にでも、決して劣るものではない。
どちらにしろ、今の浩之の表情は、冴えないやる気のない男でしかない。
「ねえ、浩之?」
「ん?」
「もう少しおろおろしない? 見てて面白くないんだけど」
「わけわかんねえよ」
浩之は綾香のわけのわからない会話に、やはりいつも通りいい加減に返事をした。綾香としては、言った言葉は嘘ではないので、わけがわからないわけではないのだが、確かに、今ここでする会話ではないのかも知れない。
「センパイ、がんばってくださいね」
「ありがとう、葵ちゃん。ほら、綾香も葵ちゃんみたいに、もうちょっと素直に応援してくれれば、かわいい……」
バシュッ!
綾香の左ジャブが、風を切った。浩之の鼻先をかすめたそれは、後数センチ深ければ、浩之の鼻の骨を折っていただろう。それどころか、そこからさらに浩之がのぞけるように逃げなければ、返す拳、ラビットパンチが、浩之の意識を絶っていたろう。
「あ、ごめん、恥ずかしくて、手が出ちゃった」
少なくとも、恥ずかしいならそれを堂々として言うべきではないだろう。
もっと最初の話として、試合を数分後に控えている選手に、殺人級の技を仕掛けるなどという非常識も、綾香がやれば、綾香的には常識なのだろう。
「もう、出る文句もないぜ」
浩之はため息をついたが、しかし、綾香はそんな浩之の行動を、敏感に察知していた。
へえ、ほんとに、私のこれ、避けるんだ。
確信はあった。寺町戦が終わってからの浩之は、少なくとも一つのレベルをあげている。綾香の、今までの手加減の攻撃から、もう一ランクだけ、手加減を減らした攻撃を避けることができるようになっていた。
今までのままなら、綾香のさっきの一撃で、KOさえ、三位決定戦を辞退するはめになっていただろう。
それをわかっていて、綾香は、その一撃を繰り出した。そして、浩之はそれを避けた。どうせ、それが避けられない程度、またはそれを喰らって倒れる程度なら、この試合、勝てるわけがないのだ。
綾香の、慈悲が一滴も含まれないような試練を、浩之はやる気のない顔で、難なく切り抜けたのだ。
それに、今の回避は、まわりに見せつける、という効果もある。
もちろん、綾香との仲を、ではない。それは見せつけたとしても、せいぜい浩之が奴隷だと思われるだけの話だ。
浩之の実力を、それはまわりに、そして英輔に見せつけていた。
綾香のジャブは、もう素人では見えない。ここに来た選手でも、そして英輔でも、さっきの攻撃は、見切るのは難しい。
それをやる気のない顔のまま避けた浩之の実力を、見ている選手は嫌というほど見せつけられたのだ。
もっとも、それで何が変わるわけではない。
綾香の見たところ、相手の英輔は、浩之の実力を、まったく見くびっているようには見えない。実力を恐れて動きが鈍る可能性は否定できないが、今のデモンストレーションも、そう意味のあるものにはなるまい。
だが、やる気のないように見えても、浩之が確実に成長していることがわかっただけでも、綾香は満足できた。
後は、浩之の出す結果を、信じるだけだ。
正直、実力は拮抗、いや、少し浩之の方が劣っているだろう。
しかし、それでも、浩之が無様な戦いをするわけがないのだ。何もできずに、負けるわけがないのだ。
いや、負けるわけがない。今は、綾香はそう信じるつもりだ。
葵は、もとより、それを疑っていないのだろう。今から試合を始める浩之よりも闘志をみなぎらせている。
「センパイなら、きっと勝てます。私、信じていますから」
「ありがとう、葵ちゃん」
少しプレッシャーも感じる言葉だが、浩之はそれを素直に受け取った。
ちゃんと応援してやっても、何の力になるかわからないが、それでも、やらないよりは、やった方がいいに決まっているのはわかっていたので、
「まあ、ここは素直に応援しとくわ。がんばってね、浩之」
綾香も、今度は力を入れずに、浩之の胸板を、とん、と拳で叩く。
それは、今からまた戦いに向かう浩之を鼓舞する、威力のない、しかし、最大の威力を誇る、綾香の一撃だった。
「藤田浩之選手、藤木英輔選手、試合場へっ!」
審判の声が、体育館に響いた。
続く