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最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(147)

 

 浩之は、ウレタンナックルに指を通した。

 まだ、使い古されていないそれは、特注品であるので浩之のサイズにはぴったりではあったが、しっくりとは来ない。まだ、身体になじむほどは使用していないからだ。

 しかし、そのウレタンナックルとは、もう何年もつきあいがあるかのような錯覚に、浩之は襲われていた。

 今朝、この体育館に来たときに、どんなことを思っていたのか、思い出せない。それほど、この数時間は、浩之にとって長いものだった。

 そして、これから、また長い時間が始まろうとしていた。

 つい、と試合場を隔てた場所を見ると、そこには英輔が、道場の面々に囲まれて、やはりウレタンナックルをつけているのが見えた。

 ……女性比率が多いよな、どっちも。

 本戦に進めるかどうか、という大事な試合の前に、浩之はそんなのんきなことを考えていた。

 実際、エクストリームに出場する男子の選手の中では、まれに見るほどに女性のセコンドなり、知り合いが来ている。むしろ、今日でも屈指の二人と言えよう。

 測らずも男がうらやむ戦いを二人は繰り広げていたのだ。もっとも、どちらともそんな戦いなどしたくもないし、やってもいないのだが。

 ぼうっとしながら英輔の方を見る浩之を見て、葵が綾香に耳打ちする。

「センパイ、さすが、落ち着いていますね」

 かいかぶり過ぎとしか言い様がない。

「私には、またくだらないこと考えているようにしか見えないけど」

 綾香は、いたって冷静で公平だった。まあ、浩之の日頃の行いというのも、綾香の考えに影響していることは否定できないのだが。

 しかし、落ち着いているということだけを見れば、落ち着いている。落ち着きすぎている。もとから気負うような浩之ではないが、今はむしろ闘志さえ感じられない。

 反対に、英輔は葵から見ても、いつも通りにこやかな顔をしているが、それでも、たまにこちらに、浩之か葵を見ているのだろうが、その目には遠くからでもそれとわかる闘志が宿っている。

 どちらにかけるか、と言われれば、十人中九人が英輔にかけるだろうほど、その差ははっきりしていた。

 しかし、その方が、むしろ浩之らしい、と最近は綾香も、そして葵まで思うようになってきた。必死な浩之よりも、むしろこんなやる気のない浩之の方が、よりその力を発揮できるのではないか、とも思えるのだ。

 それに、今の浩之は、ただ眠っているだけ、だとも言えるのだ。

 試合が始まれば、また、あの寺町戦で見せた浩之が、目を覚ますかもしれない。そうすれば、英輔相手にでも、決して劣るものではない。

 どちらにしろ、今の浩之の表情は、冴えないやる気のない男でしかない。

「ねえ、浩之?」

「ん?」

「もう少しおろおろしない? 見てて面白くないんだけど」

「わけわかんねえよ」

 浩之は綾香のわけのわからない会話に、やはりいつも通りいい加減に返事をした。綾香としては、言った言葉は嘘ではないので、わけがわからないわけではないのだが、確かに、今ここでする会話ではないのかも知れない。

「センパイ、がんばってくださいね」

「ありがとう、葵ちゃん。ほら、綾香も葵ちゃんみたいに、もうちょっと素直に応援してくれれば、かわいい……」

 バシュッ!

 綾香の左ジャブが、風を切った。浩之の鼻先をかすめたそれは、後数センチ深ければ、浩之の鼻の骨を折っていただろう。それどころか、そこからさらに浩之がのぞけるように逃げなければ、返す拳、ラビットパンチが、浩之の意識を絶っていたろう。

「あ、ごめん、恥ずかしくて、手が出ちゃった」

 少なくとも、恥ずかしいならそれを堂々として言うべきではないだろう。

 もっと最初の話として、試合を数分後に控えている選手に、殺人級の技を仕掛けるなどという非常識も、綾香がやれば、綾香的には常識なのだろう。

「もう、出る文句もないぜ」

 浩之はため息をついたが、しかし、綾香はそんな浩之の行動を、敏感に察知していた。

 へえ、ほんとに、私のこれ、避けるんだ。

 確信はあった。寺町戦が終わってからの浩之は、少なくとも一つのレベルをあげている。綾香の、今までの手加減の攻撃から、もう一ランクだけ、手加減を減らした攻撃を避けることができるようになっていた。

 今までのままなら、綾香のさっきの一撃で、KOさえ、三位決定戦を辞退するはめになっていただろう。

 それをわかっていて、綾香は、その一撃を繰り出した。そして、浩之はそれを避けた。どうせ、それが避けられない程度、またはそれを喰らって倒れる程度なら、この試合、勝てるわけがないのだ。

 綾香の、慈悲が一滴も含まれないような試練を、浩之はやる気のない顔で、難なく切り抜けたのだ。

 それに、今の回避は、まわりに見せつける、という効果もある。

 もちろん、綾香との仲を、ではない。それは見せつけたとしても、せいぜい浩之が奴隷だと思われるだけの話だ。

 浩之の実力を、それはまわりに、そして英輔に見せつけていた。

 綾香のジャブは、もう素人では見えない。ここに来た選手でも、そして英輔でも、さっきの攻撃は、見切るのは難しい。

 それをやる気のない顔のまま避けた浩之の実力を、見ている選手は嫌というほど見せつけられたのだ。

 もっとも、それで何が変わるわけではない。

 綾香の見たところ、相手の英輔は、浩之の実力を、まったく見くびっているようには見えない。実力を恐れて動きが鈍る可能性は否定できないが、今のデモンストレーションも、そう意味のあるものにはなるまい。

 だが、やる気のないように見えても、浩之が確実に成長していることがわかっただけでも、綾香は満足できた。

 後は、浩之の出す結果を、信じるだけだ。

 正直、実力は拮抗、いや、少し浩之の方が劣っているだろう。

 しかし、それでも、浩之が無様な戦いをするわけがないのだ。何もできずに、負けるわけがないのだ。

 いや、負けるわけがない。今は、綾香はそう信じるつもりだ。

 葵は、もとより、それを疑っていないのだろう。今から試合を始める浩之よりも闘志をみなぎらせている。

「センパイなら、きっと勝てます。私、信じていますから」

「ありがとう、葵ちゃん」

 少しプレッシャーも感じる言葉だが、浩之はそれを素直に受け取った。

 ちゃんと応援してやっても、何の力になるかわからないが、それでも、やらないよりは、やった方がいいに決まっているのはわかっていたので、

「まあ、ここは素直に応援しとくわ。がんばってね、浩之」

 綾香も、今度は力を入れずに、浩之の胸板を、とん、と拳で叩く。

 それは、今からまた戦いに向かう浩之を鼓舞する、威力のない、しかし、最大の威力を誇る、綾香の一撃だった。

「藤田浩之選手、藤木英輔選手、試合場へっ!」

 審判の声が、体育館に響いた。

 

続く

 

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