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最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(149)

 

 浩之は、腕を大きく振りかぶりながら英輔との距離と縮めた。

 そして、そのまま振りかぶった腕を、振りおろす。浩之は、拳を振り下ろしたわけではなかった。中谷戦で使った、腕を完全に伸ばして、パンチとは言えない格好での攻撃だ。

 英輔は、それを、冷静に後ろに下がって避ける。

 少なくとも、この攻撃を簡単にカウンターできるとは、浩之は思わなかったのだ。腕を伸ばしたまま振り下ろせば、距離も、威力もかせげる。何より、英輔はそんな攻撃など、今まで体験したことがないだろうことは、容易に想像できた。

 普通のジャブでは見切られる可能性が高いが、変則の攻撃は、対応するには難しいはずだ。しかも、距離はやはり打撃を使う浩之の方が有利、一方的に攻撃できる状況なのだ。

 懐に入って来たなら、残してある左腕でパンチを放つつもりであったのだが、英輔は、警戒してか、飛び込んでは来なかった。

 変則の攻撃で、英輔を捉えられるとはさすがに浩之も思っていないが、相手が対応しにくいのなら、それで十分であった。

 もともと、一撃や二撃で決まる試合ではない。相手の出方を見るためだけの攻防だ。

 やはり、うかつには体験させてくれないか。

 今の攻撃も、誘いではあったのだ。慣れていない打撃とは言え、その程度で英輔がチャンスを逃すことはないし、よしんばチャンスでなかったとしても、懐に飛び込んで、組み技に持っていくことは可能だったろう。

 もちろんそこは、浩之も十分に対処できるつもりでいる。それだけの距離があったのだから、そう簡単に押し切られることはなかったはずだ。

 有利ではないが、決して不利ではない距離で、浩之は英輔の攻めを体験したかった。

 打撃が手を出せばタイミングを取られるように、組み技だって、やっていれば慣れというものは出てくるし、組み技にもタイミングというものはある。技を見せれば、それだけ相手に対応され易くなるのは、打撃も組み技も同じことだ。

 それを嫌い、自分の有利でない状況と判断した英輔は、飛び込んでこなかったのだ。腕を振り下ろす打撃は、確かにカウンターの餌食にはなりにくいものの、隙は大きいので、組み技の選手にとってみれば、絶好の機会ではあったが、少なくともその距離は有利にできるだけ近づいていないことを、感じ取っているのだ。

 まったく、かわいくねえ対応だ。

 浩之は憎々しげに英輔を睨みながら、そう思った。

 隙がない。隙を出すようなうかつな行動、見方を変えれば英断とも言える攻めを、英輔はまだ行う気がないのだ。

 その目に宿る闘志が、見せかけだけとは思えない。

 言わば、今の浩之には、英輔は、伏竜に思えた。じっと伏して、そのときを待つ竜。時が来れば、一気に天まで駆け上がるだろう。

 それに対するには、浩之も伏して待ちかまえるしかない。このレベルになると、先に手を出す方が圧倒的に不利。二人の組み合わせを考えても、それは間違いない。

 綾香の作戦も、まずは「我慢」と言われた。

 綾香にしても、浩之を確実に勝たせる方法が思いつかなかったのだ。それなら、まだ寺町の方が付け入る隙があった分、勝算があったものだ。

 英輔は、安定した組み技格闘家だ。まだ初心者からそう毛が生えたわけではない浩之が付け入るには、難しい相手だ。

 そのために、相手が何かミスを、そうでなくとも、付け入る隙を探せるまで、じっと我慢するのが、勝つためにはどうしても必要だ。

 もともと、浩之は我慢の苦手な人間であるのだが、勝つためには、それも辞さない考えではあった。

 いや、本当に、あった、というのが、実のところ正しいのだ。

「な、あのバカッ」

 綾香が独り言にしては、大きな声をあげて、むしろ少し静まっていた試合場には、響くほどの声を出してしまったのも、致し方のないことだ。

 浩之は、事もあろうか、腰を落として、前屈みの格好になっていた。

 これは、さしもの英輔も、当惑した顔をした。浩之の構えは、単に組み技だけを狙うものにかわっているだけなのだが、それは当惑して当然、英輔相手に、それはない。

 観客も、それを挑発と取ったのか、おおっ、と沸く。

 挑発以外のものが、そこにあるとは到底思えなかった。確かに、浩之は打撃も組み技も、それなりにどちらも使いこなすし、そういう試合展開をしてきた。寺町戦でも、組み技で寺町をあわやというところまで追いつめたのだ。

 だが、打撃では寺町には勝てないし、同じ理由で、組み技で英輔に勝てるわけがない。やってみずとも、それはわかる。

 打撃よりも、組み技の方がよほど実力を発揮しやすいのだ。格下相手に、不覚を取ることなど、まずありえない。

 単純に、運での一撃、ラッキーパンチのようなものが、組み技にはほとんど無いのだ。であるから、組み技の技量が上の相手に、組み技で戦いを挑むなど、愚の骨頂。

 綾香がのべたように、浩之のそれはバカだ。

 しかし、一つ、誤解があった。いや、綾香がどう考えているかは、それは浩之の、この無謀な仕掛けの理由を、理解しているのは確かだった。

 浩之は、我慢できなかったのだ。

 色々我慢できないものはある。もう負けたくなかったし、だからと言って身を削るような思いをして、相手の隙をじっとうかがうのも、気が滅入る。

 しかし、負けたくない、と、気が滅入る、と二つを比較すれば、負けたくないという言葉が先に来るのは間違いなく、そのために動こうと、浩之自身思っていた。

 だが、浩之には、もう一つ、我慢できないものがあったのだ。

 英輔を見ていると、どうしても我慢できなくなってしまったのだ。

 目の前に、こんなに強い相手がいるのに、それをそのまま放っておくのは、非常にもったいない気がしてしまったのだ。

 それがバカなことなど、重々承知。そして、それが格闘バカの病気だということも、嫌々ながら痛いほど理解している。

 じりっ、と浩之は一歩、足を進める。

 英輔も、もう当惑などせずに、笑みを消して、同じように前屈みになって、浩之の望んだ、組み技で戦おうとしていた。

 自分でもバカをしているのはわかってるんだが……まあ、ここでこれぐらいやって負けるようじゃあ、本戦に行っても何もできないだろうしな。

 浩之は、そう誰に言うでもなく、いいわけじみたことを考えていた。

 そうとも言い切れはしない。浩之の成長は早いのだから、二、三ヶ月もあれば、驚くほど成長しているだろうし、何より、バカな行動をして勝てるのは、それこそ実力に大きな差が、もちろん有利な方だ、なければ、無理に決まっているのだから。

 どちらにしろ、その言い訳は無駄にはなるまい。試合が終われば、間違いなく綾香に詰問されるだろうから、もっとましな言い訳を考えておくべきだろう。

 勝つことも大事だ。それを浩之は寺町に負けることで、嫌というほど理解させられた。それでも、いや、寺町と戦ったからこそ、このバカな行動を取ってしまうのは、むしろ仕方のないことなのかもしれない。

 また、少し、浩之は英輔との距離を縮めた。

 もう待つ必要がないと思ったのか、英輔も、少しずつ距離を縮めてくる。十分有利な状況であったので、待っている必要はない、と判断したのだろう。

 英輔は間違っていないし、浩之は、おそらくは間違っているだろう。

 しかし、それも浩之の選んだ、一つの戦いだった。

 英輔と浩之は、申し合わせたかのように、同時に飛び込んだ。

 

続く

 

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