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最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(151)

 

 じりじりと距離をつめながら、浩之は腰ももっと低く落とそうとしていた。

 浩之は、すでに打撃を打つ、少なくとも打撃から入るつもりはなく、反対に、組み技に、もっと言うとタックルによった構えを取ることができるのだ。

 片方を捨てるというのは、戦略的な幅を狭めるということにもなるのだが、一方を通すという覚悟から来る優位性も捨てがたい話なのだ。

 現に、今浩之は、タックルにいくにはむしろ理想的な体勢であった。

 これが打撃格闘家相手なら、むしろ腰を落とさずに、相手が打撃を打ってくるまで待つという戦法の方がいいだろうが、英輔も組み技に偏っている以上、組み技相手に組み技を狙う構えの方が有利なのだ。

 英輔も、それに合わせて、腰を落とす。下にさえ入られなければ、つまり肩辺りでぶつかってしまえば、タックルの意味などないし、何より、自分もタックルをかけることができる。

 さすがに組み技主体の英輔だった。同じように構えても、浩之は自分が不利なのをひしひしと感じていた。

 この差ばっかりは、どうにもならないよなあ。

 頭の中でそうつぶやくと、浩之は一度距離を取った。まったく攻めもしなかったのだし、そこを英輔に狙われるかとも思ったが、英輔はその浩之を何ら追撃せずに、その場にとどまっていた。だが、まったく油断している様子はない。

 エクストリームは、この二人がどうこう言うわけではないが、レベルの高い戦いだ。だからこそ、こういう膠着状態というのはかなり起こりうる。

 浩之もその膠着した辞退を願っているわけではないが、どうしようもできないものだし、何より、膠着状態に見えて、色々と水面下で作戦が進んでいるのだ。

 策戦など無理、と自分で考えていたわりには、浩之には、一応明確な策戦が浮かんでいた。それは天才と言っても差し支えのない話だが、いかに作戦が出たところで、それがうまくいくとは限らないし、他の策戦を思いつかないのだ。

 通常、策戦とは、失敗を予想して、どんな状況になっても対処できるようにするものだ。それこそが正しい、そして効果的な「策戦」と言える。

 浩之のそれは、確かにうまくいけばおなぐさみ程度の、失敗を予測した策戦ではあるものの、しかし、失敗したときの保険は、何もないのだ。

 それを、人は策戦とは呼ばない。賭け、と言うのだ。

 浩之は、かなり距離が離れた状態で、腰を軽く落とした。

 打撃にさえ距離が遠すぎる場所での攻撃によった構えに、何の意味があるとも思えなかったが、反応するように、英輔も少し腰を落とす。

 距離が離れていても、浩之が飛び道具でも持っているのではないかと勘ぐっているような油断の無さだった。神経を張り続けるというのは、かなり精神的な疲労もあるだろうが、それを英輔は恐れていないようだ。

 むしろ、恐れているのは、浩之の、瞬発の才能。

 瞬発力、も恐れてはいるが、英輔が本当に恐れているのは、浩之の身体能力ではない。

 瞬発的に、実力を超える相手を打倒する力を、浩之が引き出すことを、何度か試合を見ただけで理解しているのだ。本当に恐れるのは、そこだ。

 だから、一瞬たりとも気は抜かない。その瞬間に、浩之の「瞬間」が重ならないとも限らないのだ。

 それに、所詮、それがなくとも、浩之は十分に警戒する相手なのだ。だから英輔は、毛ほどの油断も見せない。

 浩之も、それは覚悟の上だ。英輔の慎重さを超える策戦なり、「瞬発」なりを引き出さなければ、浩之に勝ちはないのだから。

 まだ、遠い。タックルさえ、その射程外だ。それは英輔にも言えるので、英輔も攻撃して来ない。

 浩之は、まずは自分の思い通りに事が進んでいるのを確認して、少しだけ安堵した。英輔には気取られなかったようだが、浩之は、何度も気を抜いている。そうしなければ、三ラウンドなど、持つ訳がないのだ。

 どうせ英輔が攻撃に転じた瞬間に、気など抜けなくなるのだ。今抜いておかなければ、いつ抜くというのだ。

 少しだけ精神を落ち着かせて、浩之は、またゆっくりと腰を落とす。ゆっくり、ゆっくりと。

 そう、まだゆっくりと落ちる。本当に、手がマットの上につくのではないかと思えるほど、長く、しかし、ゆっくりと。

 英輔の眉間に、少し疑問符が浮かび、それは、すぐに何かにつながった。

 浩之の手が、マットにつくかつかないその瞬間に、英輔が動いた。

 浩之の右に回り込むようにしながら、距離を詰めてきたのだ。そのスピードは速く、いかに射程外とは言え、簡単に流せる動きではなかった。

 慌てて、浩之も腰を上げて円をえがきながら英輔から距離を取る。幸い、距離が遠かったので、英輔に致命的に近寄られるよりも早く、浩之はまた射程外に逃げた。

 英輔が攻めて、それを浩之が消極的に逃げた。十人いて、十人がそう答えるだろう。だが、事実はかなり違っていた。

 自分の策戦が、まず失敗したことを浩之は苦々しく思いながらも、反対に、さすが、という思いにもとらわれていた。しっぽなどほとんど見せていないはずなのに、英輔は浩之が何をしようとしたのかすぐに判断して、距離をつめてきたのだ。これをさすがと言わずして、何を言おうか。

 腰が落ちたから、素早く動けないだろうと思って攻めた、などということではないのだ。

 それは、一直線ではなく、英輔が横に回り込むようにしながら距離を詰めたことによって、明らかにされている。

 もし、ただ攻める気なら、英輔は一直線に浩之に向かったはずだ。わざわざ、横にまわるようにしたのは、浩之の射程から逃れるためなのだ。

 浩之の狙ったのは、クラウチング・タックル。クラウチングスタートの格好から、一気に距離をつめる、浩之の持つ最速のタックルだ。

 完全にクラウチングスタートの格好にならなくとも、ようはスタートダッシュがやりやすい、前に体重をかけた体勢になればいいのだが、腰を落としたまではよかったのだが、前に体重をかけた瞬間に、英輔は距離をつめた。

 しかもご丁寧に、浩之のタックルの射程から外れながらだ。

 このクラウチング・タックルは、体勢が体勢だけに、方向転換には非常に向かない。だから横にまわられながら距離をつめられると、どうしようもないのだ。

 英輔は、それを一瞬で理解したのか、浩之のそれを、前に出て、準備が済む前につぶしたのだ。端から見ても難解な策戦であるはずのそれを、すぐに見抜かれるとは、さすがの浩之も思っていなかった。

 しかし、心の内にある言葉は、むしろ現状にそっていた。

 やっぱ、これは決めさせてもらえないか。

 策戦としては、ばれるはずのないものなのに、成功するとは、つゆほども考えていなかったのだ。どちらにしろ、普通のタックルを決めただけでは、勝ったとは言えない相手だ。こんな策戦一つ失敗したところで、落ち込んでいる暇はなかった。

 何より、この策戦は、失敗してもいい。大して問題にもならない。

 理由は二つ。

 一つは、これが失敗したからと言って、浩之自身は、何ら不都合を被らないため。

 もう一つは、これこそその理由。

 それは、失敗するためにある、単なる撒き餌なのだ。

 

続く

 

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