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最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(152)

 

 タラリ、と浩之の額から、汗が流れる。

 体育館の中には、それなりに冷房が効いてはいるのだろうが、残念ながら、この人数に、過酷な肉体行使を行えば、汗など流れて当然だった。

 まだぶつかったのはほんの数度だが、英輔の方もすでに汗だくになっているもともと、準備運動の時点で、汗を流しているのだから、それは当然。

 しかし、今の浩之の汗は、むしろ冷や汗だった。

 確かに、浩之は今、危険も顧みずに、撒き餌をまいている途中だ。そうやって、英輔が隙を見せる、つまり、浩之の動きに、身体を合わせてしまうまで、持ちこたえるつもりではあった。

 しかし、英輔相手に、それは至難の技だ。そもそも、撒き餌をまいている途中に、自分がパクリとやられない保証など、どこにもないのだ。

 少なくとも、それだけのものは英輔にはある。それが本気で攻撃しているのではないと見破るぐらいの目は、持っていても何らおかしくない。

 そう考えると、浩之は本気で攻撃するしかなかった。しかも、打撃をなるべく封じながらだ。

 一見、不利に見える浩之の打撃を封じた戦い方も、綾香などはちゃんと優位性を見いだしている。浩之がそこまで考えているかどうかはわからないが、結果は今のところそれなりについてきているように見えた。

 浩之は、打撃を、逃げるときの仕方ない攻撃としか使用していない。組み技よりは、むしろ打撃に時間をかけてきた浩之、まあ、二ヶ月と一ヶ月ぐらいの差でしかないのだが、には、組み技よりも打撃の方が事を有利に進めることができるだろうし、もしそうでなくとも、英輔相手の組み技は、良い作戦とは言えない。

 だが、打撃を封じているとは言え、それは浩之が意識的にやっていることだ。英輔に封じられているわけではない。そこに、まだ希望がある。

 打撃を、何かの目的で浩之が使わない。そう考えると、どういう理由で使わないのかを、英輔も考えているはずだ。

 実際は、おそらく、多くを浩之は考えていなかった。思いつかない方法を、身体が選んでいるだけのように、綾香には見えたのだ。

 そんなものを、他人が理解できるわけがない。それでも理解しようとすれば、行き着く答えは、おのずと限られる。

 何を狙っているのかはわからないが、何か打撃技を、狙いすませて打つ機会をうかがっているのでは、と英輔は考えているはずだ。

 だから、どうしても警戒して攻撃の手が緩む。組み技だけなら、浩之を圧倒できるとわかっていても、最後の一歩を踏み出せない。

 それこそが罠だ、と次の瞬間には考えるだろう。だが、一度起きた疑惑は、そうそう覆せるものではない。

 さらに、浩之は完全に打撃を封じたわけではなく、ちゃんと逃げるときには使用している。そこが、また英輔を混乱させる。少なくとも、完全に打撃を打たないとは言っていないのだから、いかに打撃に向いていない体勢でも、打撃を警戒しないわけにはいかないのだ。

 浩之にどこまで考えがあるのかはわからないものの、今はそれなりに浩之に有利に事は進んでいた。

 しかし、反対に言えば、有利に進んでいるはずなのに、ほとんど攻めることができないというのも事実だ。

 さっきも、浩之がクラウチング・タックルをつぶされたのが、綾香にもわかっていた。

 実際にやりあえば、浩之は間違いなく不利なのだ。状況が浩之に有利に働いても、それだけでは浩之と英輔の間にある、組み技の実力を埋めることはできないのだ。

「センパイ、大丈夫でしょうか?」

 葵も、そわそわしながら浩之を見守っていた。英輔本人に言ったように、いかに英輔には日ごろお世話になっていたとしても、葵は完全に浩之の味方だった。

 できることなら、有効なアドバイスをしたいのだが、残念ながら、葵も組み技の実力は高い方ではなかったし、アドバイス一つで覆せるものでないことも理解していた。

「まあ、今は膠着状態になってるから、すぐに負けることはないと思うけど……」

 すぐに負けないだけだ。やはり、浩之の方が分が悪い。

 表情も、少しあせっているようにさえ見える。まあ、一般人から見れば、それでもまだやる気なさそうに見えるのは、浩之の顔の作りが、もとからそうなのだろう。

「センパイのことだから、何か作戦があるんですよね?」

「……さあ? 私は、こんなことやれなんて言わなかったけどね」

 浩之が暴走しているのは確かだ。綾香の手綱に、浩之はまったく従わなかった。それについてどうこう言うつもりは、綾香にはない。

 だけど、もしそれで負けて帰って来たら……

 浩之の試合中であるというのに、綾香の放った強烈な殺気は、試合場の二人を一瞬、ビクッとさせて、しかし、二人ともそれで攻めるでもなく、何とか落ち着きを取り戻した。

 まるで野生の肉食獣が怒ったかのような殺気に、葵も驚いたが、少し綾香を攻めるような目で見た。

「綾香さん、センパイの試合中なんですから」

「あー、ごめんごめん。浩之が言う事聞かなかったから、ちょっとね」

 わざと浩之に聞こえるように綾香は言った。おそらく、試合中でなけれあ、床に頭をつけて浩之は謝っただろう。

 その言葉で、一瞬浩之に隙ができたと思ったのか、英輔は前に出ようとしたが、距離が遠かったのと、すぐに浩之が持ち直したのを見て、無理な攻めは行わなかった。

 下手をすれば、その一瞬の隙が勝敗を決していたかもしれないのだ。浩之の勝ちを望むにしては、いささか綾香は乱暴過ぎた。

 しかし、綾香の真意は、浩之にはちゃんと伝わっていた。

 それに答えるわけではなかったが、腰を落として、また英輔との距離を縮めだす。

 が、今度は英輔が、ゆっくりと距離をつめずに、一気に浩之との距離を縮める。腰の落ちた浩之にタックルをかけるの非常に難しいはずだ。

 だが、英輔の狙いはそこではなかった。素早く、浩之の腕を取ろうとする。

 手首を取られ、横にまわられれば、すでに関節技が決まってしまうところだったが、浩之は素早く英輔の手を逃れた。と同時に、自分は英輔の脚に手を伸ばす。

 が、それが届くか届かないかの距離で、英輔は素早く脚を後ろに下げ、浩之に身体をあびせかけるようにつかんだ。

 腰が離れれば、投げることもままならないが、つかめれば、それだけで英輔の方が有利なのだ。こうなると、浩之は何とか逃げる算段をするしかない。

 英輔が浩之の懐に飛び込むよりも早く、浩之は横に身体を動かしていた。左右にふって、英輔の腕から逃れようともがく。

 後ろに下がりながらのその動きは、確かに英輔に技をかけにくくしていたが、英輔の腕は、浩之の身体から離れなかった。

 痛いぐらいに強く握られた英輔の握力が、浩之を逃がさないのだ。

 が、まだ身体と身体の距離があった。

 浩之は、身体の振りをそのまま力として、英輔のみぞおちに、拳を繰り出した。

 その打撃を、英輔は左腕で受け止める。浩之は、その隙をついて、英輔の手を振り払った。

 そこから、二度、三度と執拗に追う英輔の手を逃れて、浩之は、何とか距離を取ることに成功していた。

 だが、それはとても成功とは言えない、不利の連続だった。

 

続く

 

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