「油断し過ぎよ、浩之」
一ラウンドを終えて帰ってきた浩之に綾香がまず浴びせたのは、まったく容赦のないそんな言葉だった。
「まったく、情けないったらありゃしない」
「あ、綾香さん、そこまで言わなくても……」
葵はすぐに浩之をかばうが、何も葵が全面的に浩之の味方だからかばった訳ではなかった。葵の冷静な目から見ても、浩之は十分よくやっていると見えたからだ。
事実、今まではよくやってきた。一回の失敗で、そこまで責めることはないように葵には思えたのだが、綾香は違うようだった。
「いいから、葵は黙っておいて」
綾香は、そうやって葵を一言で黙らせて、浩之を睨む。
「せっかくいい雰囲気で一ラウンドを終われると思ってたところを、あっさりと、しかもラウンドの終わりなんて最悪のタイミングでやり返されるなんて、油断以外の何物でもないじゃない。しかも、おまけにダメージまで受けて来て」
綾香の言葉はまったく容赦がなかったが、確かに正しいことを言っていた。
何も、試合は技が決まった決まらないだけで運んでいるわけではない。その間の、駆け引きの部分は、言わずもがな重要である。
とくに、ラウンドの間に入る前は、けっこう精神的には重要である。ここで押されたり、嫌な雰囲気で終わると、それがプレッシャーとなり、休憩をしていても、精神的には休めないという状態になったりもする。
審判への印象も、ラウンドの終わりの方が印象に残るとも言われるが、これは個人差があるのであまり信用に足る話ではなかろう。
とにかく、浩之はあまりタイミングのよくないときに押され、しかも、今までなかったダメージというものを受けてしまった。それまでは、疲労はあったものの、相手が組み技で攻めてきていたので、ダメージは受けていなかったのだ。
これしきのダメージで、KOされる浩之ではないが、しかし、確かに無視できないダメージであった。
「ああ、わかってるさ」
しかし、浩之は、綾香の言う言葉などどこふく風で、葵から受け取ったスポーツドリンクを口にして、それをかみしめるように飲み込む。
「ありがと、葵ちゃん」
「あ、はい」
綾香に責められているわりには、いやにあっさりとした浩之の態度に、葵はいぶかしげな顔をしながらも、水筒を受け取る。
まだ十分落ち着いていて、さっきの攻防ぐらいでは、まだまだ精神的には安定していると、葵はいい方向に見ようとしたが、確かに、ゆっくりしているときではないように葵にも思えた。浩之のことは信頼しているが、だからと言って心配していない訳ではないのだ。
それは、浩之の策戦のほころびに葵には感じられたからだ。
ラウンドの終わりが近いので、組み技になっても、決めるまでは届かないと思い、攻めて行った浩之の行動は、大胆であったが、悪くない、と葵も思えた。
英輔の技から、浩之は抜け出したものの、攻めの一点に置いては、明らかに英輔に先に行かれていた。そこからまたすぐに攻めるという行動を取るとは相手は普通は思うまい。
しかし、英輔はそれを読んだ。
読んだ上で、浩之の意識外の攻撃を取ったのだ。
つまり、打撃だ。浩之と英輔、打撃に関して言えば、おそらくは浩之の方が上だろう。その浩之が組み技を選択している以上、英輔から打撃を使う意味などない、そう思うところを、英輔は突いて来た。
今までの試合も、何度も見せていたのだ。だから、浩之も組み付きと同じタイミングでヒットするカウンターを、英輔が持っていることは知っていたはずだった。
しかし、完全なる失念と言えよう。その選択肢を、浩之は考えられなかった。だから、英輔のカウンターを、もろに喰らってしまったのだ。
運が良かったことに、浩之は攻める気があったと言っても、せいぜい少しダメージを与えるだけで、そんなに攻め気はなかったし、避けられることも考えて、十分に狙って打撃を放つつもりだったので、そんなに勢いが付いていなかった。
だから、カウンターとは言っても、英輔は組み技を狙った体勢の不安定な状態であったのも幸いして、大きなダメージにはならなかった。
もし、浩之が英輔を倒す気で、もっと速く踏み込んでいたならば、その勢いは、全て浩之に返って来ていたことだろう。そうなると、果たして今、浩之はこの場にいれたかどうか。
策戦を読まれ、しかも裏を取られたことは、浩之にとっては痛手のはずだ。策戦を使って、実力が上の相手に対抗する浩之なのだから、策戦がなくなってしまえば、または効果が及ばなくなってしまえば、残るは実力的に劣る選手なのだ。
もちろん、浩之がそれだけで終わるとはとても思えないし、それこそそちらの方が信じられないが、酷く不利な状況に陥っているのは間違いない。
「ちょっと、浩之、聞いているの?」
今にも暴れ出しそうな綾香の声に、浩之は、首をすくめた。
「まあ、そう怒るな、綾香。俺がお前の言う言葉を聞かなかったのが、そんなに気にくわなかったか?」
「気にくわないに決まってるじゃない」
ふんっ、と綾香は鼻息を荒くした。しかし、葵もそれを聞いて、少し笑ってしまった。
要は、綾香の助言を、まったく無視した浩之の行動が気に喰わなくて、綾香はすねているのだ。浩之の悪い部分はそうであったとしても、怒っているのは、まったくのいいがかりだというわけだ。
「そう言うな。俺だって、色々考えがあってやってるんだからな」
「で、その結果がぶざまに殴られて倒されること?」
「それを言われるとな……」
とりつく島もない綾香の言葉に、浩之は苦笑を返す。まあ、綾香だって本気で怒っているわけではないのだろうが、休憩をしに帰って来た選手に対する反応ではないのは間違いないところだろう。
「安心しろって。それだって、何も意味ないわけじゃないからさ」
浩之は、言い訳のように、そう言ってみる。いや、実際に、さっきの最後の攻防は、英輔に一本取られたのだが、それだって、最後になれば意味のあった行為になるはずだった。
「まったく、不器用にもほどがあるんじゃない?」
葵には、綾香が浩之の格闘家としての実力云々を指摘したように思える言葉だった。浩之ほど器用な人間も少ないと思うが、それはそれとして、まだ格闘家としての実力が劣るのは、その経験年数から仕方のないことでは、と考えた。
だが、その言葉の真意は違っていた。
その言葉が出るということは、浩之が何を目指してそんなことをしているのか、綾香は薄々気付いているということだ。
それは、浩之にとってはありがたかった。少なくとも、浩之のやりたいことをわかっているのなら、綾香がこれ以上、意地悪や、すねて文句を言う以外は、浩之のやりたいようにやらせてくれるということだ。
わかっているのなら、全面的にサポートすればいいではないかという話もあるが、そこは綾香だ。期待はしてもいいが、綾香の行動に希望を持つのは不可能というものだ。
浩之の、胸の奥でくすぶるもの。それが今浩之を駆り立てるものだ。
そこに、完全に火が入れば、それはきっと、浩之を勝利へと導いてくれるはずだ。
だから、今は、それに火をともすために、浩之は、無理でも無茶でも、無謀でも、自分が思ったように、戦うしかないのだ。
この試合に、勝つために。
続く