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最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(163)

 

 一歩踏み出した脚を、浩之はすぐに引っ込めていた。

 英輔は、それにいぶかしげな顔はしたものの、無反応だった。何でもないフェイントにひっかかるわけもないし、そもそも、フェイントというには、あまりにもつたない。

 浩之は、危なく、前に出るところだった。

 リスクを背負っているときは、攻めることばかりだったので、身体が勝手に反応してしまっただけなのだ。今の浩之には、前に出る気はない。

 いや、策に必要なのは、むしろ下がることなのだ。

 あせるな、この二ラウンドを全部使っても、それをやる価値はある。

 打撃の打ち合いだけになれば、勝つ方法はいくらでもあるのだ。いや、くらでもは言い過ぎか。唯一、方法はある。

 そのために、残りの時間を使うのは、何も間違っているわけではない。それで失敗したなら、どちらにしろ今の浩之に手はないのだ。

 また、少し浩之は下がる。それに合わせて、英輔は前に出て来た。あまり自分から後ろに下がると、距離を取っていたとしても、審判に注意を受ける可能性があるので、気をつけねばならなかった。

 しかし、接触する前に、浩之としては試合場の端まで移動しておきたかったのだ。それがかなわなくとも、少しでも端に近い方がいい。

 フェイントを織り交ぜつつ、浩之はじりじりと後ろに下がっていた。その消極的な態度に、何かを感じたのか、英輔も追おうとはせずに、距離を離れるに任せた。

 やっぱり、一筋縄ではつてきてくれないか。

 浩之の思惑がわかっていないとしても、あからさまでなくとも、ばれないように気をつけていたとしても、浩之の動きに、きな臭いものを感じ取るだけの実力は、英輔にはある。

 しかし、浩之とて、方法がないわけではなかった。こちらから手を出せば、英輔は必ず手を出してくる。問題は、そう何度も英輔の攻撃を捌く自信がないことだが、うまく組み技にもっていかれないようにしながら、逃げることぐらいはできるだろう。

 浩之は、攻撃の意思を持って、前に出ていた。それにまるで、いや、事実タイミングを合わせて、英輔も前に出る。

 浩之は、その瞬間、前進を止めて、後ろに飛んでいた。

 もちろんタイムラグは起こる。英輔の動きに完全に合わせられたわけではなかったが、それでも、英輔の組み付く間合いからは、一瞬で逃れた。

 しかし、後ろに下がれば、攻撃はできないということだ。できたとしても、下がりながらの一撃などに、威力などない。

 浩之に攻撃する意思はないとわかって、英輔はすぐに拳を繰り出していた。タックルをするには、狙いがそれたのだから、打撃に変化させるしかなかったのもあるが、コンビネーションの使えない、隙の大きい英輔の打撃でも、後ろに下がる浩之の打撃よりは優れているのだ。

 パンッ、と英輔のジャブが浩之の顔面に入る。威力は期待できないものの、一瞬浩之の動きを止める効果は十分にあった。

 が、浩之の身体は、そのまま慣性の法則に従って、後ろに下がっていた。それに、もとより、反撃の意思はなかったのだ。ジャブが入ったときに、攻撃はうまくできなかっただろうが、逃げるだけならば、十分にできた。

 浩之の顔面に、あまりに簡単にジャブが入ったのをいぶかしんだのか、英輔はいったん、攻撃を止めて、少し距離を取った。

 英輔は、遠い、というほどではないが、二人にとっては、必殺の間合いであっても、さばかれてしまうのは間違いない間合いを取る。

 それは、英輔にどんな思惑があったとしても、今の浩之には、幸運としか言い様のない間合いだった。もう、浩之の身体は、ほとんど試合場の端近くまで来ている。このまま攻撃されるよりも、一手間を置かれた方が、浩之としても策戦が実行しやすかった。

 さて、吉と出るか、凶と出るかだ。

 浩之は、胸元に引かれていた腕を、下に下げた。英輔が混乱するのが、見てわかった。

 さっきまでは、スタンダードな打撃の構えを取っていたのに、そのガードをおろしたのだ。

 腕を引きつける、または前に突き出すというのは、ガードの意味ももちろんあるが、それ以上に、攻撃の意味も大きい。

 下に下がった腕と、胸に引きつけられた腕では、攻撃のスピードがあまりにも違う。同じように、前に突き出された腕と、下に下げられた腕が、どちらが相手を先につかめるかなど、もう考える間でもない。

 腕があがっているか、下がっているかの、ほんの僅かな差でしかないが、その差に意味があるというのをわかっているからこその構えだ。

 しかし、浩之はそれを今拒否していた。だらんと下がった腕は、ガードにも、攻撃にも一呼吸を必要とする。ここから出される技などないのだから。

 ボクシングではノーガード戦法というのも、ないではないが、キックも組み技も許されたエクストリームでは、自殺行為にしか見えない。

 そもそも、ノーガード戦法は、相手を挑発して正常な判断をさせなくしたり、相手を前に出させたりするものだ。英輔がその程度で正常な判断ができなくなるわけではないし、そもそも、英輔は前に出てくる。むしろ待ってくれた方が、どれだけ楽だろうか。

 真意は測りかねる、しかし、誘いだとしても、無駄に浩之の方にリスクが大き過ぎる。何より、いかにまだ反応できるとは言え、すでに必殺の間合いなのだ。

 それが英輔を混乱させるための手段だとわかっていても、英輔は一瞬混乱してしまった。それでも、すぐに攻めるべきだと思って一歩出ようとしたが、しかし、それよりも浩之の動きの方が一瞬早く、英輔には珍しく、前に出られない状況で、浩之に接近されていた。

 千載一遇のチャンスと言える状況だった。英輔の前進は、確かに隙でもあったが、それが相手を押しのけ、技に入られないという効果はあった。実際、浩之は、英輔が出てくることによって、酷く技が仕掛けにくかった。

 今ならば、自分の実力の限界に近い技が出せるだろう。止まっている相手に出すのだ、しくじりようがない。

 しかし、浩之はそれを選択しなかった。

 いや、もとより、そんなことは不可能だったのだ。英輔は、その一瞬の隙をつかれて距離を縮められた時点で、冷静に少し腰を落とし、どんな技にも対応できるように反応していたのだ。仕掛けたところで、綺麗にさばかれて終わりか、下手をすれば反撃で倒されてしまっていただろう。

 だから、それは千載一遇のチャンスでも何でもなかったし、そもそも、浩之は攻撃をしようとは思っていなかった。

 それは、次の手のための布石に過ぎなかった。

 浩之の身体は、真横に飛んでいた。

 

続く

 

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