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最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(164)

 

 慣性の法則を裏切るように、浩之は真横に動いていた。

 浩之が力を込めたのは、後ろ斜め。前に出る勢いを殺し、かつ、素早く横に飛んでいた。近づかれた瞬間に真横に動かれた英輔にとっては、まるで浩之の身体が消えたように見えただろう。

 普通の相手なら、それで相手の無防備な横を取って終わりだ。だが、英輔は普通ではなかった。見えなくなるという隙を、身体をそらすだけで解消する。

 浩之の身体が見えなくなったと言っても、消えたわけではないのだ。浩之はどこかにいる。それが視界の外になったからこそ、見えなくなっただけなのだ。

 英輔は、経験として、自分の下には死角がないのを知っている。下へもぐってくる相手は、柔道では普通なのだ。慣れた動きを、見逃す訳がない。

 ならば、左右のどちらかということになる。だったら、頭を下げて、視界を広げればいいだけの話だ。

 混乱して、かつ、前進できない状況で突っ込まれたにもかかわらず、英輔は冷静だった。だから、少し身体をそらしただけだった。

 後ろに下がらなかったのは、攻撃するためだ。浩之が何か仕掛けているということは、こちらの危機でもある変わりに、大きなチャンスでもあるのだから。

 英輔の眼は、浩之の姿を簡単に捉えた。

 浩之は左に飛んでいた。素早い前進からの、急な方向転換によって、身体のバランスは崩れて、そこから素早く動けなかったようだ。それが証拠に、英輔との距離が、思ったよりも遠い。攻撃の意思があるなら、ここは距離をつめておかねばならない。

 反対に、英輔の身体には余裕があった。身体をそらしただけなのだから、それを前に戻すだけで、体勢は完璧だった。この状況なら簡単に、バランスを崩しているままの浩之を捕まえることができるだろう。

 英輔は迷わなかった。

 確かに、実力的には、英輔は浩之の上を行っている自信はあった。浩之が天才であるのは、戦えば戦うほど理解できるが、絶対的に時間の差というものは覆せるものではないのだ。

 だが、それだけに、一手間違えば、倒されるのが自分であることも理解できる。やはり、天才は天才、実力で勝てないのなら、時の運でも、それ以外でも、何でも使って勝とうとする。

 そこまでわかっていて、なお英輔は攻めなければと思っていた。もとより、判定勝ちなど狙っていない。絶対に倒す気持ちでいかないと、倒せるどころか、判定さえもぎ取れない相手なのだ。

 だから、こんなチャンスは、逃す訳にはいかない。

 英輔の身体が、下に沈む。それも一瞬のこと、矢となった英輔は、一直線に体勢を崩した浩之の胴めがけて走っていた。

 浩之の上半身が、不自然なほどに曲がる。まるで倒れるのでは、と思うほど、上体が下に落ちた。

 その体勢では、どうやっても逃れられないはずだった。脚にまったくのためがない。ただ二本の脚で立っているからと言って、ためもなく動ける訳がないのだ。

 ダンッ

 しかし、それは踏みだしの音だった。脚で踏み切るときよりも、小さいとは思えたが、それは音となり、そして確かな運動となった。

 浩之を捕まえるために突き出された英輔の腕が、空を切った。

 浩之の身体は、英輔から見て、右に飛んでいた。さらに浩之自身は後退しているので、まともにタックルをよけられた英輔が攻撃できる間合いから、あっさりと浩之の身体が逃げる。

 英輔は、バランスの崩れた身体を、手をついて元に戻した。しかし、殺しきれなかった勢いが、二散歩前にたたらをふませる。浩之自身が後ろに下がったおかげで、浩之からの攻撃はなかったものの、もう英輔は攻撃を続けることができなかった。

 まわりから見ていても、浩之の身体は、まるで物理法則を無視するかのように、右に左に飛ぶように動いていた。もっとも、攻めたと思ったのに、結局逃げるだけしかできなかったのだから、それにあまり意味があるとも思えなかったが。

 が、逃げられた英輔は、それが一体何だったのかを、素早く理解する必要があった。体勢はもう戻して、構えも取ったが、浩之は浩之で、何もなかったかのように普通の構えに戻っていた。

 あのノーガード戦法に何の意味があったのか、まったくわからないし、逃げられた理由もわからない。

 そもそも、あの不可解な動きは何だったのだ。脚には、ためがなかった。前進の力を、真横に直すだけで、脚の動きを全て使い切っていたのは間違いないのだ。

 脚に動きはなかった。動きがあったとすれば、それは上半身。

 しかし、動くのに上半身を使うことなど……

 その迷いは、一秒とかからず英輔の中で消化されていた。今、英輔もそれをやってみせたのだ。

 英輔は、手をついて前に出る動きを止めた。

 それと同じことを、浩之はやったのだ。

 そう考えれば、ノーガード戦法の謎は、あっさりと解決する。浩之は、ガードを下げたのではなく、動きやすいように構えたに過ぎなかったのだ。

 マットに手をつきやすいように、腕を下に下げる。そして、脚を使い切った瞬間に、今度は腕だけの力で、飛び退く。

 無理はある。脚の力と、腕の力は、そもそも違い過ぎる。脚でできることが、腕でできるとは言えないのだ。それこそ、どんな筋力があって、そんなことができるだろうか。

 しかし、脚にためはなかったとは言え、まったく動かない訳ではない。そこに腕の力をそえてやれば、もしかすれば……

 いや、それでも、その細い腕から、浩之の身体を逃がすほどのスピードを生むのは、不可能のように英輔には思われた。

 しかし、それしかない。そのために上半身を落としたのは間違いない。それ以外であれだけの動きができたというのなら、もうそれは英輔の手に負える相手ではない。

 パワーなどなくていいのだ。スピードさえあれば、それでよかった。

 そして、浩之には、天性のものがあった。その瞬発力は、何も脚だけに備わっているものではない。腕にも、天性の瞬発力は備わっているのだ。

 その天性のものに、さらに修治によって鍛えられた、倒れたときの腕の使い方。そういうものを混ぜ込んで、浩之は腕で移動という、無茶を成功させていた。

 普通は考えつくわけもないことに、混乱してもおかしくないものだが、その混乱が、勝敗を分かつことを英輔は理解していた。だから、無茶を、その無茶のまま受け入れた。

 英輔が浩之のやったことを理解するまでに、たった三秒ほどしか必要なかったが、その三秒の間があったにも関わらず、浩之は攻撃して来なかった。

 攪乱の意味があるのならば、その三秒を攻めない理由などなかった。しかし、浩之がそれをやってこないということは、それは攪乱でやったわけではない。

 しかし、腕を下げている以上、腕では攻撃できず、そして使い切る予定であったはずの脚でも攻撃できない。

 だったら、何を思って、浩之はあんなことをやったのだろうか?

 ここまでの英輔の思考で、すでに五秒が経っている。

 しかし、浩之は、攻めるでもなく、そしてまた退くでもなく、その場で構えたまま、やる気のないどこか世を斜に見ているのでは、と思わせるような目つきで、小さく笑っている。

 まるで、英輔が全てを理解してくれるのを、待つかのように。

 

続く

 

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