ぐらり、と英輔の身体が揺れる。
力の無くしたその英輔に向かって、追い打ちをかけようとした浩之だったが、むしろ動きの予測できなくなった英輔に、当てるにはかなわなかった。
しかし、それでも、英輔の身体はそのまま前つのめりに倒れる。
一瞬で、会場が歓声で沸いた。とうとう、浩之の一撃が、英輔を捉えたのだ。しかも、完璧とも言えるクリーンヒット、浩之が何をしたのかがわからなかった観客にも、少なくともパンチがあたったのは見えたのだ。
「やった!」
「よしっ!」
葵も綾香も、とっさに叫んでいた。完璧なクリーンヒットだ。それが決まれば、いかに英輔とて、数秒は動くことさえできないだろう。いや、この一撃で決まってもおかしくないのだが、それを期待するのは危険な話だ。ちゃんと勝ちを宣言されるまで、攻めた方がいい。
いかなる英輔でも、その一撃を受けて、いつも通りに動けるわけがないのだ。ある程度回復するまでは、浩之の方が組み技でも有利ということになる。
戦いの場所を、試合場の端に持っていって、通常は起こることのない攻められない箇所を作り、そのせいでタックルのできなかった英輔と、僅か数回の打撃の応酬の間に、浩之はねじ込んだのだ。
二試合目で相手の中谷に使われ、そして三試合目ではすでにそれを使って、寺町をあわやというところまで追い込んだ、打撃を打ち落とす打撃。いや、それは打撃を打ち上げる打撃だった。打ち上げられた英輔は、無防備な状態を浩之に晒してしまったのだ。
大した一発だし、それはどこを見てもラッキーだった部分はない。あくまで、浩之の策によって生まれた一撃だった。
英輔は、もうすでに虫の息のはずだった。いくら何でも、寺町よりは打たれ強くはなかろう。例え数秒でも、行動不能ならば、勝敗は決するレベルなのだ。
だが、浩之は動かなかった。
まるで英輔を見下ろすように、上から英輔を見るだけで、覆い被さりもしない。すぐに動かなければ、審判が試合を止めて、カウントを始めてしまうのにだ。
無理な動きがあったのか、と綾香は勘ぐったが、綾香の目から見て、浩之が動けなくなるほどの無理な動きはしなかったように思えた。
英輔に、あの間にカウンターを受けていたということもない。打撃は、一方的に英輔を倒していた。
「センパイ、追い打ち!」
葵がそう通る声でアドバイスしたときには、すでに時遅かった。
審判が、浩之をその場から下がらせようとして、手を出していた。こうなると、もうおおいかぶさっても、止められるだけだった。
今の一撃で決まった可能性もあるが、英輔はそんな甘い選手ではないことを、葵は今まで見てきた練習や試合でわかっている。誰よりも不屈の闘志を持った英輔が、それだけで沈むとは考えにくかった。
そして、綾香もそう判断していた。少なくとも、テンカウントが終わる前に立ってくるだろうことは、予測できた。ダメージはかなり英輔の動きを鈍らせるだろうが、だからと言って、絶対に勝てるか、と言われれば、そうとはとても言えない。
浩之は、何故か最大のチャンスを逃してしまったのだ。この後にも、英輔のダメージが大きい以上、チャンスは続くだろうが、ここまで決定的なものにはならない。
一瞬で勝敗が逆転するエクストリームで、勝機を逃した選手を次に襲うものは、逆転負けという言葉である可能性は低くない。
浩之は、審判に腕で押されても、しかし、動かなかった。
「さがって!」
審判の声にも、反応はしているようだが、何故か、動こうとしない。
その理由は、すぐに判明した。浩之の目線が、下に向いたからだ。
前に倒れた英輔の手が、浩之の足首をつかんでいたのだ。それで、前に進むこともできず、後ろに下がることもできず、浩之はその場に立っているしかできなかった。
それは英輔の意地だった。
打撃を受けて倒れれば、追い打ちをかけられて、そうなると、いかに英輔とて、逃げるのは無理だ。
だから、それに賭けた。近づく相手の足首を取って、動きを止める。両脚を取られた以上、下手に動けば、ダメージを受けた身体でも、倒すことはできる、と考えたのだ。
だから、浩之は動きを止めるしかなかった。動けば、うまく倒されるだろう。英輔は相手を転ばせるというその点では、浩之などはるかに及ばない技術があるのだ。
だから、力で手を引きはがすしかなかったのだが、英輔の握力は、浩之の脚を逃がさない。
どう動けばいいのか考えた、その僅か二、三秒で、試合は止められて、英輔は危機を脱したのだ。
相手の足首をつかんでいる以上、カウントを数えるのを審判がためらったその数秒で、やはり英輔はかなり回復していた。
だが、残念ながら、一度審判が浩之を止めている以上、脚をつかんだままで反撃ができないのは確かだった。だから、審判がカウントを取る前に、英輔は浩之の足首を掴んでいた手を放す。
浩之は、素早く英輔から離れた。英輔のその執念に、そら恐ろしいものを感じたのだ。
少しでも早く、意識を安定させねばならなかった。勝ったと思った瞬間に、逆転される、いや、ここでは逆転されているわけではないのだが、むしろ精神的ダメージは逆転に近い、と、肉体はともかく、精神の方がほころびを見せる。
「ワンッ!」
やっと、審判がカウントを数え始める。
そのときになって、やっと英輔は、のろのろと立ち上がろうとしていた。顎へのクリーンヒットだ。軽いダメージでは決してないが、これでは決まらないのも、もうわかっていた。
少しでもダメージの回復をはかる英輔。試合が開始されれば、すぐにでも攻めたい浩之だったが、英輔を見えている限り、それすら危険なのでは、と思ってしまう。
「ツー、スリーッ!」
ふっ、と顔をもたげた英輔の眼には、もう隠せないほどの闘志の炎が燃え上がっていた。それが、英輔の身体を無理矢理動かしているようにさえ思えた。
ゾクリッ
まるで首筋に刃物をつきつけられたような、幸運なことに浩之にはその経験がないが、悪寒が背筋を凍らせた。
その視線は、それ自体に力があるように、浩之をしめつけようとしてくるかに思えた。
しかし、悪寒と共に、胸の奥をジンと熱くするものに、浩之は心を奪われた。
もちろん、それは恋などではなく。
英輔と、心ゆくまで戦いたいという、どこか馬鹿らしくも、酷く真剣な、戦う意思だった。
その目が、浩之の意識を安定させ、そして、それ以上に燃え上がらせた。
「フォーッ!」
たった四カウントで、英輔は立ち上がった。
続く