作品選択に戻る

最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(166)

 

 ぐらり、と英輔の身体が揺れる。

 力の無くしたその英輔に向かって、追い打ちをかけようとした浩之だったが、むしろ動きの予測できなくなった英輔に、当てるにはかなわなかった。

 しかし、それでも、英輔の身体はそのまま前つのめりに倒れる。

 一瞬で、会場が歓声で沸いた。とうとう、浩之の一撃が、英輔を捉えたのだ。しかも、完璧とも言えるクリーンヒット、浩之が何をしたのかがわからなかった観客にも、少なくともパンチがあたったのは見えたのだ。

「やった!」

「よしっ!」

 葵も綾香も、とっさに叫んでいた。完璧なクリーンヒットだ。それが決まれば、いかに英輔とて、数秒は動くことさえできないだろう。いや、この一撃で決まってもおかしくないのだが、それを期待するのは危険な話だ。ちゃんと勝ちを宣言されるまで、攻めた方がいい。

 いかなる英輔でも、その一撃を受けて、いつも通りに動けるわけがないのだ。ある程度回復するまでは、浩之の方が組み技でも有利ということになる。

 戦いの場所を、試合場の端に持っていって、通常は起こることのない攻められない箇所を作り、そのせいでタックルのできなかった英輔と、僅か数回の打撃の応酬の間に、浩之はねじ込んだのだ。

 二試合目で相手の中谷に使われ、そして三試合目ではすでにそれを使って、寺町をあわやというところまで追い込んだ、打撃を打ち落とす打撃。いや、それは打撃を打ち上げる打撃だった。打ち上げられた英輔は、無防備な状態を浩之に晒してしまったのだ。

 大した一発だし、それはどこを見てもラッキーだった部分はない。あくまで、浩之の策によって生まれた一撃だった。

 英輔は、もうすでに虫の息のはずだった。いくら何でも、寺町よりは打たれ強くはなかろう。例え数秒でも、行動不能ならば、勝敗は決するレベルなのだ。

 だが、浩之は動かなかった。

 まるで英輔を見下ろすように、上から英輔を見るだけで、覆い被さりもしない。すぐに動かなければ、審判が試合を止めて、カウントを始めてしまうのにだ。

 無理な動きがあったのか、と綾香は勘ぐったが、綾香の目から見て、浩之が動けなくなるほどの無理な動きはしなかったように思えた。

 英輔に、あの間にカウンターを受けていたということもない。打撃は、一方的に英輔を倒していた。

「センパイ、追い打ち!」

 葵がそう通る声でアドバイスしたときには、すでに時遅かった。

 審判が、浩之をその場から下がらせようとして、手を出していた。こうなると、もうおおいかぶさっても、止められるだけだった。

 今の一撃で決まった可能性もあるが、英輔はそんな甘い選手ではないことを、葵は今まで見てきた練習や試合でわかっている。誰よりも不屈の闘志を持った英輔が、それだけで沈むとは考えにくかった。

 そして、綾香もそう判断していた。少なくとも、テンカウントが終わる前に立ってくるだろうことは、予測できた。ダメージはかなり英輔の動きを鈍らせるだろうが、だからと言って、絶対に勝てるか、と言われれば、そうとはとても言えない。

 浩之は、何故か最大のチャンスを逃してしまったのだ。この後にも、英輔のダメージが大きい以上、チャンスは続くだろうが、ここまで決定的なものにはならない。

 一瞬で勝敗が逆転するエクストリームで、勝機を逃した選手を次に襲うものは、逆転負けという言葉である可能性は低くない。

 浩之は、審判に腕で押されても、しかし、動かなかった。

「さがって!」

 審判の声にも、反応はしているようだが、何故か、動こうとしない。

 その理由は、すぐに判明した。浩之の目線が、下に向いたからだ。

 前に倒れた英輔の手が、浩之の足首をつかんでいたのだ。それで、前に進むこともできず、後ろに下がることもできず、浩之はその場に立っているしかできなかった。

 それは英輔の意地だった。

 打撃を受けて倒れれば、追い打ちをかけられて、そうなると、いかに英輔とて、逃げるのは無理だ。

 だから、それに賭けた。近づく相手の足首を取って、動きを止める。両脚を取られた以上、下手に動けば、ダメージを受けた身体でも、倒すことはできる、と考えたのだ。

 だから、浩之は動きを止めるしかなかった。動けば、うまく倒されるだろう。英輔は相手を転ばせるというその点では、浩之などはるかに及ばない技術があるのだ。

 だから、力で手を引きはがすしかなかったのだが、英輔の握力は、浩之の脚を逃がさない。

 どう動けばいいのか考えた、その僅か二、三秒で、試合は止められて、英輔は危機を脱したのだ。

 相手の足首をつかんでいる以上、カウントを数えるのを審判がためらったその数秒で、やはり英輔はかなり回復していた。

 だが、残念ながら、一度審判が浩之を止めている以上、脚をつかんだままで反撃ができないのは確かだった。だから、審判がカウントを取る前に、英輔は浩之の足首を掴んでいた手を放す。

 浩之は、素早く英輔から離れた。英輔のその執念に、そら恐ろしいものを感じたのだ。

 少しでも早く、意識を安定させねばならなかった。勝ったと思った瞬間に、逆転される、いや、ここでは逆転されているわけではないのだが、むしろ精神的ダメージは逆転に近い、と、肉体はともかく、精神の方がほころびを見せる。

「ワンッ!」

 やっと、審判がカウントを数え始める。

 そのときになって、やっと英輔は、のろのろと立ち上がろうとしていた。顎へのクリーンヒットだ。軽いダメージでは決してないが、これでは決まらないのも、もうわかっていた。

 少しでもダメージの回復をはかる英輔。試合が開始されれば、すぐにでも攻めたい浩之だったが、英輔を見えている限り、それすら危険なのでは、と思ってしまう。

「ツー、スリーッ!」

 ふっ、と顔をもたげた英輔の眼には、もう隠せないほどの闘志の炎が燃え上がっていた。それが、英輔の身体を無理矢理動かしているようにさえ思えた。

 ゾクリッ

 まるで首筋に刃物をつきつけられたような、幸運なことに浩之にはその経験がないが、悪寒が背筋を凍らせた。

 その視線は、それ自体に力があるように、浩之をしめつけようとしてくるかに思えた。

 しかし、悪寒と共に、胸の奥をジンと熱くするものに、浩之は心を奪われた。

 もちろん、それは恋などではなく。

 英輔と、心ゆくまで戦いたいという、どこか馬鹿らしくも、酷く真剣な、戦う意思だった。

 その目が、浩之の意識を安定させ、そして、それ以上に燃え上がらせた。

「フォーッ!」

 たった四カウントで、英輔は立ち上がった。

 

続く

 

前のページに戻る

次のページに進む